これまで と これから

海の向こうからおみやげ持ってきた。

異国の地で交通事故に遭って死にかけた話 II

 

こちらの続きです。

 


左方向から バイクに乗った私たちに向かって
乗用車が突っ込んできた事故。

 

ルカは左足のひざ下を
バイクと 車に挟まれ 
複雑骨折していた。
けれど それ以外
他は たいした傷もなかったという。

 

私は 横からの衝撃で
左の大腿骨骨折。
更に
左脚の膝の骨と、ひざ下の骨が外れて、ぶら~ん状態。
そして
うつ伏せで地面に叩きつけられたので、肋骨を7~8本骨折。
ついでに
意識が戻ったときに自分ではがしたんだけど
頬っぺたから顎にかけて、赤いかさぶたが
ぺりぺりぺりっと はがれる程度の擦り傷があったようだ。

 

あとは 手にもダメージを負っていたらしい。
革の手袋は表面が擦りむけて 血の染み跡もついていたけど、
意識が戻った時にはもう、手はきれいに治療されていて、
指も普通に動いてくれてた。

 

事故のあと、ルカは
私たちを待っていた友人に
自分で電話をかけた。
その友人はその頃 
私の日本人の友達と付き合っていて
(そのつながりでルカと出会ったのだけど)
事故の夜もこの二人は一緒にいたから
夜中にも関わらず すぐに 
私たちが運び込まれた病院まで来て
私たちとは会えなかったけど 
病院のスタッフから 私たちの状態の事情説明を
受けてくれた。
(そしてこの事件について、他の友達たちへの広報担当になってくれた)

 

事故当夜の手術で
ルカは 左ひざ下を 真ん中から開かれ
複雑骨折した骨の 小さすぎる破片だけ取り除き
そのまま骨を固定するため
足の肌に直接 外から
金属製のブリッジを設置されると
(サイボーグか何かみたいに 足から直接
金属が「生えてる」状態)
普通病棟に運ばれた。

 

この手術のとき
下半身だけの麻酔を打たれ
頭は普通に起きていたルカは 
手術室で
自分のひざ下が切開されている様子を
自分の上半身と下半身を隔てている
カーテンの隙間から直接、
そして 首を伸ばせば見られる位置にあった
モニターを通じて見ながら
「この破片はどうする?」
「小さすぎる。捨てろ」
といった医師グループのやりとりを 興味深く見学していて
どうやら薬物投与もされていたので
自分の手術を妙に落ち着いて見ながらも 
妙な精神的ハイ状態で
「あの~ その骨の破片、捨てるんなら俺もらってもいいですか?」
と カーテンに手をかけながら先生方に陽気に聞いたら
先生方は ぎょっとしたらしく 
(そりゃそうだろね・・・)
「大丈夫だから大人しくしてなさい」 と
起きた上半身を無理やり寝かされ、
今度はきっちりとカーテンを閉じられてしまったそうだ。

 

私はその夜を含め 意識が戻るまでのあいだに
少なくとも2回 手術を受けたという話を 後から聞いた。
(腿の骨を修正したのと、
膝とひざ下の足の骨を元通りにつないでくれたのと。)

 

運び込まれた時点では 私のほうが重症だったので
私は普通病棟ではなく
集中治療室のほうに 留め置かれた。

 

おそらく 事故から二日後くらいに
ルカの友人の彼女=私の日本人の友達が 
私に面会許可が下りると同時に
すぐに会いに来てくれた。

 

たぶん この時のことは
映像での記憶がある。
目に映る 集中治療室の天井の記憶。
薄暗くて わずかな光しかない場所で
なにか声が聞こえるので
顔を横に向けたら その友達が 
ヘンなスポットライトに照らされるように座っていて、
いろいろと なにか 話してくれてた。

 

私は 自分が置かれている状況については パニックにはならなかった。
自分がそこにそうして居ることを そのまま受け入れて
ただ なんとなく 淡々と その場にいた。
もちろん 何も理解してはいなかったけれど
「ここは一体どこ? どうなってるの? 私に何があったの?」 
といったような疑問は
いっさい何も 頭に湧いてこなかった。
顕在意識で何も憶えてなくても
無意識のほうは全てを「見て」いて
状況を把握していたからなのかも知れない(?)

 

(もし催眠術にかけられて
事故について憶えていることを話しなさい
って言われたら、自分が何を話すのか興味はある。)

 

暗い部屋にあるベッドに横になっている自分が
緑色の布でくるまれているだけで
素っ裸で 何も着ていないのに気づいたとき 
それがなんとなく嫌で 不安な気持ちになったけど
それを何とかしてくれ と要求できるような
強い感情や 
はっきりとした意識や考えは 
いっさい浮かんでこなかった。

 

このへんの時系列はよくわかってないんだけど
私たちの事故の連絡を受けた 
日本人の友達たちも
イタリア人の友達たちも
面会時間に合わせるように仕事を調整して 
たくさん 会いに来てくれてたらしい。
きっとみんな びっくりして 
心配して
来てくれたんだと思う。
その後 退院するまで
たくさんの友達たちに 助けてもらった。
感謝の言葉が見つからないほどに。

 

そういえばね、
いまこれを読んでくれてる人のなかで
脳科学の研究をしている人がいたら、
飽くまで私個人の 一つのケースとして 
報告したいと思うんだけど

 

私は 自分自身には ほぼ記憶がなくて
意識も一切はっきりしていなかった
集中治療室にいたあいだ
お見舞いに来てくれた人たちに対して
イタリア人の友達には イタリア語で
日本人の友達には 日本語で 対応していたんだって。

 

脳って たぶんやっぱり 
機械的な働きに近くて
「この言語で話そう」 という
本人の思考なり 
意識なりを通さなくても、
耳が イタリア語で話しかけられたのを聞いたら
私の脳内の
イタリア語担当部分が反応して 
イタリア語でその人に答え
日本語で話しかけられたら 
日本語担当部分が反応し、
その都度 無意識に でも自然に 
言語を使い分けて
それぞれの言葉で対応してくれるものらしいです。

 

人間の脳の働きって、面白いよね・・・・・

 

話は戻って

 

私は 事故後に最初に意識が戻った時は 
比較的元気で 人と話もできたけど
その翌日か 翌々日に 
容体が急変して 再び意識を失ったのだという。
折れた肋骨が肺を圧迫していたのが 急に悪化して
自力で呼吸ができなくなり
口から肺まで チューブを差し込み 
呼吸を補助する措置を採るのと同時に
チューブ挿入の痛みを緩和するために
モルヒネを相当量 投与されていたそうだ。

 

それを初めて知ったのは 
退院したあと ルカに
「リアニマツィオーネに居たとき、
不思議な映像を観ていた記憶がある」
と話したときに、
「マンマミーア、アモーレ、
それ、きっと君がモルヒネをたくさん打たれてた時だと思うよ・・・」
と教えてくれた時だった。
(それまで自分ではモルヒネを投与されてたことを知らなかった)

 

ちなみにそのとき見ていた映像をまだよく憶えてる。
真っ白い空間に
黒い、植物の蔓みたいなものが
奥へ奥へと けっこうな速さで 
右へ左へとうねりながら
その植物の蔓を
上方と 進行方向への二方向へ向かって
成長させていきながら どこまでも進んでいく ――――
というものだった。

 

この 肺が圧迫されて 呼吸が自力で出来ていなかった時期、
私の日本人の友達は 
集中治療室の医師から

 

「この患者さんは もしかしたら
亡くなってここを出るか、
回復するのか、
自分たちにもわからないから
患者さんの日本のご家族へ 連絡した方が良い」

 

と告げられたので
私の家族に国際電話をかけて、知らせてくれたそうだ。
(ありがとう・・・)

 

この話も 後から聞いて
私は 臨死体験の 
千載一遇のチャンスに恵まれていたのか・・・!
と悔しく思った。

 

だってこのとき、臨死体験は出来なかったんですよ。
(したら憶えてるよね? 
憶えてないってことは
しなかった ってことだよね?)

 

どうせそこまで命が危ない状態になったんなら
滅多にない機会なんだから
そこ(臨死体験)までやっとこうよ、わたし~。
せっかくのチャンスだったのに、勿体ないなぁ、もう・・・・
と 自分に文句をつけたい。
(でも二度目のチャンスはもう要らないです★)

 

集中治療室は 一般病棟の患者は入れない。
見舞客も 無菌室に入るような
指定の服と 髪を覆うカバーをつけて
一人ずつしか 
そして 短時間しか
患者のそばに行けない。
ルカは 自分で私の様子を見に来ることが出来なくて
心配で やきもきしていたと話してくれた。

 

毎朝 手術をして下さった先生方の訪問を受けるとき
Come stai ? 「具合はどうだ?」
と聞く先生方に
Come sta mia ragazza ? 「彼女の具合はどうなんです?」
と逆質問していたくらい 苛立っていたから
自分は感じの悪い患者だったかも知れない と反省していた。

 

何日間かに及ぶ半危篤状態のあと
尽力して下さった先生方や看護師さんたちのおかげで
私の容体は回復に向かった。

 

ルカはずいぶん後 
私たちがもう リハビリも終えたあとに
「もしあのまま 君が死んでいたら
俺は今ごろ精神病院にいたと思う」
と 真顔で言ったことがある。

 

それくらい 真面目に
命が危ぶまれていたのだそうだ。
本人は 全くそんなこと知らなかったけど。

 

肺の圧迫で済んでいたから 生き残れた。
もし 折れた骨が肺に突き刺さり
穴が開いていたら 
私はあの事故で 死んでいたのかも知れない。

 

その状態からは少し回復した後だと思うけど
静かに寝ていたところを
急に お医者さんたちに上体を起こされ
血痰を吐かなければならない と
背中を乱暴に 何度も叩かれて 
ぼうっとして 音も感情も何もかも
自分の意識の遠くに感じていた感覚の中でも
その痛みだけは直接的で 
すごくリアルで 
立体的な痛覚と 突くような衝撃を伴って感じたので
意識ははっきりしてなくても
感情は生きていて
その 痛みを加えてくる手に すごく腹が立って 
同時に すごく悲しくて つらかったことを憶えてる。
「なんでこんな乱暴なことするの?」
「やめて!痛い!」って。

 

その血痰の症状が落ち着いたあと
私は 普通病棟へと移されることになったんだけど
(その理由というのが、新たな交通事故患者のために
ベッドを空けなきゃいけなかったからだそうで・・・)

 

集中治療室担当の 若い看護師さんが
まだ半分 ぼーっとしてる状態の私を
他の病室へ移すときに 
「内緒だよ。君の恋人に会わせてあげるからね」
と小声でささやき
おそらく そのまま最短距離で次の病室には向かわず
わざと「寄り道」をして 他の階で一度エレベータを降りて
そのとき
ストレッチャーに載せられ
処置室フロアの廊下で
何かの順番待ちをしていたルカの前をわざわざ通ることで 
私たちを 事故以来 
初めて会わせてくれた。

 

私はほとんど ルカの存在すら忘れかけていたほど
自分の記憶や感覚を長いこと 
手からこぼれ落としたまま なくしていた。 
「それ等」を以前 持っていたことも憶えてないくらい
自分の心とか 精神が
自分の実体から 遠く離れている感覚だった。
でも
ルカの顔を見た瞬間、
無意識に 私は彼に向かって 両腕を伸ばしてた。
勝手に身体が そう動いた。
ルカも 私を認めると
跳ね起きるように身を起こし 
身体をこちらへ伸ばして
ぎゅっと 力を込めて 抱きしめてくれて、
二人とも無言で 何秒間か 抱き合っていたけど
看護師さんの
「ごめんね、もう行かないといけないけど
彼女は6階の病室に行くことになったから
君は明日から いつでも彼女を訪問できるからね」
という言葉に
二人で看護師さんに「Grazie」とお礼を言って
「A presto」(ア プレスト「すぐにまた会おう」)
と両手の指を絡ませ合って
お互いの顔を
必死に見つめ合いながら別れた。

 

このとき初めて 
自分がいま 病院にいて
自分の身体は 
回復する必要があるのだと
まともに自覚したと思う。

 

なんとなく 眠りから少し醒めたようで
しばらく失っていた
感覚と 意識が 
自分の手の中に 
戻って来つつあるのを感じた。

 

このとき
思いやりある計らいをしてくれたこの看護師さんは
マルコといって
後で私たちの
大切な友達になってくれた。

 

 

 

 

異国の地で交通事故に遭って死にかけた話

 


もう昔のことなのに、ついこの間みたいにも感じる。

 

むかし 初秋の ちょうど今ごろの季節・・・・10月に、
イタリアで、交通事故に遭った。

 

フィレンツェの、その当時住んでいた家の近くで。

 

私は、その日一日のディテールを
あまりはっきりと憶えていなくて、
一緒に事故に遭ったルカのほうは
記憶も 意識も はっきりしていたので、
後から彼に、いろいろと話を聞かせてもらった。

 

その日は夕方、ルカと一緒に買い物に行くことになっていて
彼の退社時間に合わせて、
彼の会社近くの スーパーマーケットの入り口で
待ち合わせをした。

 

二人で買い物を終えて、
ルカの愛車だったHONDAのバイク、
イタリアでは スクテローネといって
日本だと ビッグスクーター と呼ばれる種類だそうだけど
かなり大きな二輪車で、重量的な安定性もあって、
いわゆるモトリーノみたいな大きさのものとは違うバイク
に乗って家に帰り、
夕食をつくって 一緒に食べて
その日は、あとはリラックスして過ごすはずだった。

 

夕食が終わる頃、ルカの携帯電話が鳴った。
友達たちが数人、集まっているから 
君たちも来ないか
という誘いの電話。

 

私は憶えてないんだけど、
ルカによれば、このとき私は
「今夜は出かけないで家にいましょうよ」
と言ったらしい。

 

でも
律義者で 何よりも先ず 男同士の友情には
特に強い気遣いを示す性質のルカは
せっかく友達が誘いの電話をくれたのだから 
と言って 私を説得して、
私も 説得されて、出かけることになった。

 

台所を片付けて、出かける支度をして、
時刻は夜の10時過ぎ。

 

10月の夜は肌寒く、バイクなので
私は軽めのダウンジャケットを着ていたと思う。
ルカはその頃、そのバイクのローンをもうすぐ払い終える頃だったけど
「君と出会えるってわかってたら、バイクじゃなくて、車を買ってたよ」
と何度も私に言っていて、
雨の日に出かけられないことや、
気温の低い季節には、寒さに耐えなければならないことで
すまなさがっていた。

 

でも私はどういうわけか 昔から二輪車が なんとなく好きで、
TVでバイクのGPレースを観たり、
大学生のとき、男友達たちと一緒に
鈴鹿まで 8時間耐久レースを観に行ったり、
自分でも免許を取ろうかな、
と真剣に考えていたこともあるくらいだから
「どうして?このスクテローネ、かっこいいじゃない。私は好きよ」
と いつも答えていた。

 

ふだん 私の基本ファッションは
ジーンズだったので、下はジーンズ姿。
そして秋冬は 服の色に合わせて 色のきれいな、イタリアらしい
革の手袋をつけて出掛けるのがお気に入りだったので
その時も私は、革の手袋をしてルカのバイクに跨ったのだけれど、
それが事故の際、多少、私の手を守ってくれることになった。

  

ルカも、革のジャケットに、ジーンズに、手袋。
これが夏だったら、
おそらく身体への傷跡やダメージも、変わっていただろうと思う。
ツーリングに出るならともかく、ちょっとそこまで出かける程度なら、
夏だったらきっと二人共、軽装だっただろうから・・・・

 

ヘルメットはいつも、きちんとかぶってた。
ルカはフルフェイスのメットだったけど  私のは
顎の下で パチン とホックを留めるタイプのヘルメット。
両方とも事故の衝撃にも脱げずにしっかりと 私たちの頭を守ってくれた。
後で見たら 左右と後頭部それぞれに 裂傷が刻まれていたけれど。

 

ルカがバイクに跨って、私が乗りやすいように、バイクを傾ける。
何度もそうやって乗っていたから
その夜、バイクに跨るときに、いつもと違った感じがしたかどうか
はっきりと思い出せない。
ただ、私はそのとき、少し不満な気持ちで家を出たことは
確かだったと思う。

 

事故はそれからすぐに起きた。

 

走り始めて2ブロックも行かないところで、
STOP と地面に英語で書いてある、一時停止線を無視した乗用車が
私たちの左側から 通常の速度で走ってきた。

 

ルカはその車に気づいて、
「停まるだろう」 と思ったそうだ。
けれど、その車は停止せず、
速度も落とさず、こちらへ向かい続けて来る・・・・・・

 

「こいつ、俺達を轢いた ―――」

 

そう思った瞬間に、宙に 高く放り投げ出される感覚があって、
それから いつまで経っても ぜんぜん地面に着かなくて、
一体どれくらい空中にいたのか、ずいぶんと長い時間を感じていたそうだ。

 

後に警察の検分書類を見た時に、
私とルカは、接触地点から15mほども、空を飛んだとわかった。
奇跡だと言われたのは
そこは住宅街の真ん中で、重厚な石造りの建物に囲まれた場所であり、
もし ほんの少し 位置がずれていたら
私たちは 堅牢でがっしりとした 数世紀前から建っている石の建物に
スピードをもって 自ら突っ込んで行ったか、
バロック的な重々しい装飾のついた、大きな鉄製の街燈に
勢いよく 身体を叩きつけていたか、
いずれにしても 打ち所が悪ければ
そのまま即死していた可能性もあった、
ということだった。

 

その接触地点から、落下地点まで、
私たちは二人とも 
建物と街燈のあいだ、たった1.2メートルほどの空間を
択ぶように 上手くすり抜けて飛び(これが特に奇跡的と言われた)
建物の前の、幅2mもない歩道の上に、どさりと落ちた。

 

ルカは仰向けに倒れていて、私はルカの足先の すこし離れたところに
うつ伏せに倒れていたのが見えたらしい。
私の名前を何度呼んでも、私がピクリとも動かないので、
すごく怖かった とルカは語った。
「アイウート! アイウート!」(Aiuto 「助けて」)
と 動かない身体を地面に横たえたまま 声の限りに叫び続けると、
周辺の建物から 人が三々五々、降りて来てくれて、
ルカが私の安否を尋ねると、数人の人が 私を抱き起こしてくれて
ぺちぺち頬っぺたを叩いたり、話しかけたりしたら
指が ピクン と動いたので、
初めて私が生きてることがわかって
心底安心したそうだ。

 

その人たちが、警察と、救急車を呼んでくれた。
ルカは 
「たぶんその時の俺はアドレナリンが噴出してたと思う」
と述懐する。
「轢いたやつはどこ行った! 逃げたのか!?」 と叫びまくったり
私のそばに行こうと身体を起こそうと暴れて
でも 力が入らないというか
全く身体が動いてくれないので
(私もルカも この時かなり出血していたらしい)
代わりに私の名前を叫び続けたり、
興奮状態で 一人でわめき散らして
「いいか、落ち着け、大丈夫だ。大人しくしてろ。」
と、何人もの人に 肩を押さえられ
なだめるように話しかけられてたよ、
と 苦笑いしながら語ってくれた。

 

その車を運転していたのは
30代のイスラエル人旅行者(カップル)で、
ローマのフィウミチーノ(空港)から乗ってきていた。
明らかに一時停止サインを無視して起こした事故にも関わらず
本人手書きの供述書には英語で
「一時停止をし、ゆっくり走り始めたら、バイクが目の前に来た」
と書いてあった。
警察の事故現場の検分で、そんなウソはバレバレだったけど。

 

私たちが周辺住民の人たちに助けられているあいだ、
犯人もそこにいたはずだ とルカは言う。
ルカのスクテローネは、私たちが飛ばされた方角とは直角の方向へ
50m先まで滑って行き、
犯人の車も壊れて、同じ道(車の進行方向)の20m先で
動かない状態になり
その現場から逃げることは出来なかったから。

 

犯人が警察に 乗っていたのは自分だ と名乗り出たのは
レンタカーだったので、
ナンバーを照会すれば
誰が借りた車なのかはすぐに調べがつくから、
逃げても無駄だと思ったからだろう。

 

でもこんなことを知ったのは、全部、後になってからで
この犯人の旅行者たちは当然のように 私たちのお見舞いにも来てないし、
事故の供述書作成のあとは釈放され、
そのままイタリア旅行を続けたらしい。
イタリア人の友達たちは
せめて相手がレンタカーでよかった。ちゃんと保険があるから。
と言っていた。

 

フィレンツェが州都のトスカーナ州
外科医療が優秀なのだそうだ。
だから イタリアの他の州からも、外科手術の必要な患者が
送られて来たり、
自費で自らやって来たリする。

 

私たちが運び込まれた病院は、
特に事故での外科医療やリハビリを専門とする病院で
フィレンツェ市内の病院群が集まる地域、
カレッジ と呼ばれる場所にあった。

 

不幸中の幸いというけれど
その夜の私たちも、その恩恵に預かった。
その日、その病院の外科医のなかで、
いちばん腕の良いお医者さんが
夜勤の当番だった。

 

一度は当番の時間を終えて帰宅の途についたところを、
携帯への緊急連絡で呼び戻されたらしい。
すぐに病院に戻ってくれたドットーレ(Dottore 「ドクター」)は
それから朝の5時まで、
私とルカ、二人の手術を
立て続けに行って下さった。

 

意識もあって、ある意味 元気まんまんのルカと、
呼びかければ目を開き、話しかける内容によっては 
うなづく反応はするけれど
質問しても、自分の意思では一言もしゃべらない私は
自然と 対応が別になったという。

 

私は目を開いていても 意識は気絶してたんだと思う。
今でも 事故に遭ったその夜の、家を出てから
病院の リアニマツィオーネ(Rianimazione 日本でいう集中治療室)で
「本当に」目が醒めるときまでの記憶が
思い出せないから。

 

病院に運び込まれて 別々のところに連れていかれる前、
椅子に座らされた人形(ルカ談) のような私に ルカは
「アモーレ、ここは病院だ。もう大丈夫だ、安心していいからね」
と必死に語り掛けたけど、
私は無表情のまま こくん と黙ってうなづいただけだったので
ルカは
「彼女に嫌われた、もうおしまいだ」
と思ったそうだ。

 

 


長いので次に続きます☆

 

 

 

 

見極めと見切りの大切さ

 


さいきん世の中が騒がしい。

 

まるで別次元での出来事のように 
一般人のあずかり知らぬところで進んでいる事態もあれば
日常生活では 一見、普段と変わらない平穏な時間のなかで
どこか奇妙な事件が 起こっていたりする。

 

いつも もどかしく思うのは
何事につけても
最悪の事態を想定してみることをする人が
周りに殆どいなくて
そういう想像をしてみる人のことを、小馬鹿にする風潮が
身近にあることだ。

 

たしかに 世の中に起こることも
自分自身に起こることも
何ごとも、そう簡単に全容や真実を
把握できたりはしない。

 

時間と共に変化していく状況や相関図は
生き物のように
その性質が元とは違うものに「育って」しまったりもする。

 

ある程度の時間をかけて
<事実>を集積しながら
注意深く観察して 考察を加えて初めて
見えてきたり、
浮かび上がって来る<真実>もある。

 

突発的なものももちろん 
私たちの周りには存在するけれど
たいていの物事には
たとえ誰も気づかなくても
その結果を予測できるような 先行する出来事が 
既に起こっていることが 現実には多い。

 

身近なことから、国同士のことまで、
これは全く同じ現象だと言える。

 

たとえば子供の 小さいと思える我儘を
「可愛がっていれば いつかこの子も
聞き分けの良い子になるだろう」 
と寛大に許していたら
その子が後に 手の付けられない暴君のような人間に育つとか。

 

あるいは
二度続けて、チャレンジしても
望んだ結果を得られない状況が起こったなら
三度目にもまた やはり失敗するとか。

 

目指しているものに到達できないのに
修正を加えたり やり方を変えず 
それまでと同じ挑戦をするのは
愚鈍なことに 私は思える。

 

少なくとも アプローチを変えて挑むべきだと 私は思う。
「そのやり方では結果を得られない」 という事実が 
そこにもう あるのだから。

 

今までのやり方ではだめだ と
厳しい目を向けて 修正を加え 対応するようにすべきだと思う。

 

けれど そうした姿勢は
対人間ということになると、
とたんに
博愛主義者と称する人たちや 人権を云々する人々が
一斉に異議を唱え始める。

 

確かに人は複雑で
同じ人でも その時置かれている状況によって
同じ物事に対しての反応が違ったりもするし
その人自身が「思ってもみなかった」行動をとってしまうことだってある。

 

その時間的猶予や 判断を保留する機会
愛情をもってなされる忍耐 は当然
あって然るべきだと思う。

 

けれど
人であっても 物事であっても
最終的に 冷徹な目をもって <見極める>ことは 
とても大切なことだと思う。

 

そして 状況によっては <見切って> 切り捨てることも
必要な場合だってある。

 


それぞれに 多岐にわたる悩みがある

 

この仕事を続けるべきか
この人と この関係を続けるべきか
この方法を再度検証する必要はないだろうか
この要求をのみ続けるメリットはまだ残っているか・・・・・・

 

人生のさまざまな場面に於いて
見極めと 見切りの判断が
必要とされているのに
普段 たいていの人たちは
ただずるずると
同じ状況に引きずられたまま 変わることのない苦しみを受けつづけ
日々を過ごしていることが多い。

 

それは
自分自身で 建設的な方向へ向けて
ものを考える習慣のない人が
陥りやすい傾向じゃないかと思う。

 

「この状況を打開するには」 という命題で
自力で環境を変えようとする意思をもって
ものごとを好転させるために自分の知恵やエネルギーを使うのではなく

 

誰か他の人からの助言や 判断や 助けを待つばかりで
自分では 嫌だと思っているその状態から逃れたり
それを止める術も持たずに ただ苦しみ続けてしまう・・・・・
まるで 無力な子供のように。

 

じぶんで 自分の置かれている環境や 状況を変えようとするには
とてつもない勇気と 気力と エネルギーが必要とされる。
自分にはそれをまかなえない と
人を諦めさせてしまう要因は多いのだろうけど
努力というものは
常に困難と 労力と 挑戦を
人に強いるものに 他ならない。

 

石の上にも三年 といったような格言にさえ
時間的区切りは とりあえずついている。
いつまでも<見極め>をせずに 
ずるずると同じことを続けていても 
そこに意義は もはや無いし 
自分自身も疲弊していってしまう。

 

同じように
嘘をつくことが習慣の 不誠実な人間に対して 
いつまでも辛抱強く 誠実さをもって対応することに
どれほどの意義があるだろう。

 

子供向けの童話なら 忍耐から教えられることもあるけれど 
現実社会で 他の人間の生活や生命がかかっているなら
ある時期を過ぎたら <見極め> <見切る> 判断を
しなければならない。

 

客観的に ものごとを見て 対処しなければならない。

 

いま 
恥知らずな貧乏国が 食べ物を恵んで欲しい と言う代わりに
なけなしのお金で 他国から技術や技術者を買い集め 
迷惑極まりないオモチャを振りかざし
お腹が空いてるんだ、美味しいものを食べさせろ と
騒ぎ立てている。

 

愚者を憐れむより 利用しようとする 
卑劣で 狡猾な者たちもまた
その騒ぎに乗じて 自分の私益を肥やそうと
陰に日向に その状況に入り込み 問題を複雑化させている。

 

「平和」という言葉は 美しく 確固としたものであるべきもののように
語られることが ままあるけれど

 

「平和」 というのは ただの「状態」であって
それを出現させるには 
条件を揃え
(それを保ちたいと望む)関係諸国間の 
政治力学的なバランスを崩さないよう
微妙で 繊細な調整を 
常に続けていく以外に
それを存続させ 維持させる手段はない。

 

「平和」は物理的に生まれ、保たれるものであって、
精神論では生まれ得ないのに
自称平和主義者たちは 
人間の心がけ次第で平和は生まれる
と説いて止まない。


愛が地球を、人類を救う という言葉を 滑稽に聞いたとしても
私は それが陳腐だとは思わないし
むしろ 積極的に信じている。

 

けれど そこに到達するには 私たち人間にはまだ 
長い時間がかかるということを 私は知っているつもりだから
世間知らずで 無邪気な正義漢が夢見るような理想論にはまだ 
引っ込んでいてもらうしかない と感じている。

 

「平和」は均衡、バランスがとれている場所にしか 出現し得ない。
球体の上に危なっかしく載っている、何角形かの薄い板でも想像してみて欲しい。

 

その中のいくつかの角に、大小ちがいのある重りがくくりつけられているとしたら
その板は バランスよく 球体(不安定なもの) の上に
均衡(平和)を保って 静かに載っていられるだろうか。

 

自分が望まなくても
人と対立して 状況と闘わなければならないことも
本来採りたくない態度をとらなければ 状況を好転させられない という事態も
この世界に生きている限り 起り得る。

 

直截的に言うなら

 

不誠実で 不真面目であることが明白な相手は そう見切って
無駄な対話を模索すべきではないし
中国、ロシア、朝鮮が 軍事力をもって均衡を崩そうとするなら
バランスをとるために 日本も同じものを揃えなければならないと思う。

 

繰り返すが「平和」とは、物理的バランスのとれた状態のことであり、
愛の心や理想論で どうにかなるものではないから。

 

日本に 潜在的な怖れを持つアメリカは 
戦後ずっと 日本に 日本自身を未熟な子供と信じ込ませ 
父親役をもって任じてきたけれど
戦後初めて
日本の「独り立ち」を 認めるような雰囲気になっている。

 

千載一遇といえるこの機会を
逃してはならないと思う。

 

将来 周辺の懸念が払拭されたあと
最後に
最終的に 
日本が 話をつけなければならないのは アメリカだけど
(敵対するという意味ではなく)

 

今は 協力の時だから
手を握り合うべき相手を見極めて
今の状況を 最善の方法で
将来のために 好転させる方向へ持っていかなければならない。

 

日本はいま 
バランスをとり 平和という状況を保っていくために
防衛力を強化して
周辺諸国との均衡を図らなければいけないと思う。
必要なら 我々は核兵器も持つだろう と 
「アナウンスする」ことは 実際的な効果を生むだろうとも思う。

 

もう対話の時期は過ぎた と明言してくれる声には励まされる。

 

その通りだと思う。
そして 対応がまだ間に合うことを祈る。

 

もし この子供の我儘さ加減は 将来面倒なことになるな と感じたなら
甘やかすのではなく その時点で 叱り、諭すべきなのだ。
育ってからでは 修正が効かなくなるのが世の常だから。

 

見極めと 見切りの大切さは
すべてのことに及ぶ。

 

 

 

 

南イタリアの田舎に日本人が行くと

 

初めて南イタリアのルカの故郷に二人で行ったとき、
夏で、
二人とも時間が取れる状態だったので、
4週間ほど滞在することにした。

 

ルカの実家に着いて ルカのお姉さんから聞かされたのは、
親戚一同が、私に会いたくて大興奮している
という話だった。

 

ルカが故郷を出てフィレンツェへ行って以来
彼は毎年、夏休みやナターレ(Natale「クリスマス」)に里帰りはするものの
恋人を連れ帰ったことはおろか、
話を聞いても、女っ気がまるでなさそうなので

 

実はゲイなんじゃないか、
いやたしか高校生のときに付き合ってた女の子いたぞ、
待て、ルネサンスの頃からゲイで有名なフィレンツェだぞ、
まさかあいつそこで覚えたんじゃ・・・ 
などと、
従兄弟たちに噂されてたんだそーだ(笑)

 

だから 「あの」ルカが、とうとう女の子を連れて帰って来るらしいぞ!
と 事前に親戚じゅうに連絡が回りまくり、
到着した日からもう、
あっちの親戚や こっちの親戚が会いに来てくれたり、
少し遠い町に住む親戚の家へ こちらから会いに連れて行かれたり、

 

私は誰が誰だかぜんぜん覚えられなくて、
でもとりあえず
「はじめましてー」
となるべく積極的に輪のなかに入って行って、
繰り出される質問には全て 丁寧に答えることに集中してた。
(「親戚」バージョンに加えて
「ルカの地元の友達たち」バージョンの集まりもあった)

 

私が外国人だってことも、
フィレンツェと違って
あまり外国人と接する機会のない田舎に住むイタリア人たちにとって
エキサイトするポイントだったらしい。

 

ヴァカンツァの時期には このエリアにも
EU内の外国人(ドイツ人とかフランス人)は来るけれど、
アジア人はこの町にも数人いる、出稼ぎの中国人くらいしかいないから、
「本物の日本人」を実見したことは、各親戚のご近所でも
それなりの話題になったりしてたそうだ。 
(パンダ状態・・・・)

 

そんな状況だから
日伊友好のため、私は頑張った。
私が彼らにとって 
<人生で初めて身近に接する日本人> 
だという責任の重圧が のしかかる。

 

何を頑張ったかって、
おもてなしで出してくださる食べ物は、
すべて美味しそうにいただくわけですよ・・・・

 

向こうはこちらが外国人だから、
「これ知ってる?」
「これ食べたことある?」
「これ美味しいわよ」
「日本にこんなのはある?」
と、楽しそうにいろいろと、しかもたくさん、 
どんどん食べてね♪ と出してきてくれる。

 

しかもまずいことには、美味しいものばっかりなの・・・・・

 

とくにブッラータBurrataなんて、フィレンツェじゃ聞いたこともなかったから
(後からフィレンツェでも売ってると知ったけど)
ブッラータとの出会いは 強烈だった。

 

なにしろそこは本場なので、
初めて 「ここの特産品だよ」 と出されて食べたときは
「ナニコレー!!!」
と、あまりの美味しさに感動。

 

しかも 自家製のフレッシュなブッラータを買えるお店が
ルカの実家の近くにもあって
お散歩ついでに 買ってきてくれちゃったりして

 

これもここの特産品のタラッリTaralli と おやつ(?)に出されたり、

 

ルカのお母さんをはじめ
親戚のおばさんたちも皆お料理が上手で、
特にルカのお母さんがつくる、ナスのラザーニャの「パルミジャーナ」が
美味しくて美味しくて、大好物になってしまうし。

 

そんな食生活で、私はいっぺんに4キロ体重が増えました・・・
田舎に到着して わずか3週間足らずで。

 

日伊友好のために断るわけにいかない と思い、
何でも笑顔で 「美味しいです♪」 と言いながら
出されるままに食べていたら、
人生でこんなペースで体重増えたことない・・・・
という体験をしてしまった・・・・

 

さすがにこれはだめでしょう、と思って、
ひとしきり全ての味は一度はいただいたわけだし、と、
その後は 丁重にお断りするようになりました。

 

4キロ増は落ち込んだ・・・・・ 
ルカは何も気にならないと言ってたけど。

 


私が気になるんです!

 


パンダって、大変なんだね!

 


イタリアでは「南の肥満問題」ということが言われているんだけど、
どう考えても(・・・以下略☆)

 

 

 

 

参考資料の記事:
luriha.hatenablog.jp

 

 

 

 

英霊の皆さまへのお盆のご供養

 

私は音楽が好きで
いろんなジャンルの曲を聴くんだけど

 

YouTubeで、こんなかわいらしい日本のグループと出会って

 

 この曲を楽しく、微笑ましく聴いていたら
とつぜん、

 

何でかわからないけど

 

遠いむかし、 
遠い外国の、馴染みのない 湿気や暑さに 苛まれながら
空腹や 肉体的、精神的な苦しみに 耐え続け
日本で帰りを待つ人々の 笑顔や安心を
一瞬でも守ろうと 闘ってくれていた人たちに

 

「聴こえますか?
明るくて、楽しそうな歌声でしょう?
あなたたちが 勝ち取ってくださったものですよ
日本はこんなにも 
平和で 幸せな国になりました」

 

って、
私を飛び越えて 
というより 
私の身体を通じて
その人たちに語り掛ける声が 聞こえたような気がしたので
(ヘンな話だとは思いますが★) 

 

8月15日にちなんで
お盆の日のご供養代わりに 
感じたものを UPしようと思い立ちました。

 

 

今日、TVで 記念式典も観たけれど
天皇陛下が 珍しく
手順通りではなく 
ご自分のお気持ちに従って 
時間をかけて その場にいらしたお姿を拝見して

 

おそらく

 

今上陛下として この式典にご出席なさるのは
今回のこれが 最後でいらっしゃるから

 

きっと まだ いろいろと 
今上帝として 
英霊だけでなく 市井の御霊たちからも
個人的に 受け止めたいことや
語り掛けたいことなどが 
もしかしたら おありなのではないだろうか・・・・・・
なんて 感じた。

 

一億総玉砕 の覚悟から
戦後の スムーズな復興への移行は 
あの日、
昭和帝が その肉声をもって
「耐えがたきを耐え 忍び難きを忍び」ましょう、と
直接 国民に
語り掛けられたからに 他ならない。

 

そうでなければ
各地で アメリカ兵に対する ひどい抵抗運動が巻き起こっていただろうと
私は思う。
(間違ってるかな?)

 

 

とにかく

 


現代の 日本の若者たちは
こんな風に 自分の好きな音楽や 文学、 勉強、 なんでも自由に
思い通りに
仲間たちと それを楽しめる 
平和で幸福な生活を 享受していますよ。

 

ありがとうございます。
ほんとうに、どうも有難うございます。

 

聞こえますか?

 

どうぞ、聴いて 楽しんでください。
あなたたちが 守ってくださった命たちが こうして繋がっています。
私が歌っているわけではないけれど(笑)
ご供養代わりに
ご紹介したいと思いました。

 

 


もちろん、このグループの皆さんは
そんなつもりで歌っているわけじゃないことは知っているけど

 


彼らの可愛らしい、すてきな歌声を 楽しんでいただけたら良いな って
そう思いました。

 

 

あのころ 好きなことも出来ず戦場に居た 若者だった あなたがたに。 

 

 

 


合掌。

 

 

 

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ちなみに。他に好きでリピしてる彼らの曲はコチラ♪

 

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以前の関連記事:

 

luriha.hatenablog.jp

 

 

 

 

 

 

過去の亡霊

 

さいきんフラッシュバックがひどい。

 

何の変哲もない日常生活のなかで
悪意のない 誰かの言葉
誰かの行動
私自身にではなく 赤の他人に起こった出来事
時には ドラマか映画の1シーン

 

そんな他愛もないものから

 

私が自覚していないところにある、なにかのスイッチが
偶然 押されると
遠い昔に感じて 
それからは忘れたつもりでいた 
あるいは 静かに心の奥深くに抑え込まれていた
ある負の感情が
眠っていたマグマのように クツクツと目覚め始めて

 

タイミング良くというか 悪くというか
つぎにもうひとつ なにかその物事に関連したことが起こったりすると
感情が
もう私のコントロールを離れて 爆発してしまう。

 

そういう時はたいてい
ひとりで家にこもる。
誰にも会わずに 
電話やメッセージにも 気付かないふりをして。

 

後で何とでも言えるから。
ごめん、寝てた。
ごめん、さいきん携帯の調子が悪くてさ。

 

子供の頃
私は「お姉ちゃん」だったから
代表して 叱られる役割で
代表して 何かを言いつけられ それを弟たちに伝達し、やらせる役割で
家の中では いつも緊張していた。

 

わたしたちが小学生のとき
都心から 郊外のマンションへと引っ越した。
その真新しいマンションのキッチンには
外国のドラマに出て来そうな 大きな備え付けのオーブンがついていて
アメリカ映画で見るみたいな
すてきなお料理が作れるんじゃないかと わくわくした。

 

その家へ引っ越した日の午後、
近所の大型スーパーへ 家族みんなで買い物に出掛けた。
私はもう気持ちが浮き立っていて
ママとお揃いの できたら 可愛いフリルのついたエプロンをつけて
生クリームや フルーツを載せたケーキを作ってみたいと夢見て
丸いケーキ型や 泡だて器なんかを 売り場で見つけてきて
「ママ、これ」 と 少し照れながら 母に差し出した。

 

母は見るなり
「なにそれ、要らないわよ。 ケーキなんて、あんた作れないでしょ?
私はやらないわよ。 作りたいなら一人で作りなさい」

 

私は元にあった場所に それらを返しに行った。

 


こっちは 中学にあがった頃のことだったと思うけど
私の学校は ミッションスクールだったので 土日が休みで
その日、休日の午前中、 父と弟たちはみんな外へ出かけて
家には母と 私だけがいた。

 

ベランダに近い床に座り込み 私は本を読んでいて
母は ダイニングテーブルに新聞を広げて 読んでいた。

 

良いお天気で 鳥のさえずりが聞こえていた。

 

ふと見ると ぷっくりとした可愛いスズメが うちのベランダに降りてきていた。
ちょんちょんちょん と 小さなステップを踏むように ぴょこぴょこ飛び跳ねて
くちばしで 床をついばんでいた。

 

かわいい♡
そう思って 母にもこの可愛い子を見せてあげようと思って
「ねえ」 
と、スズメを驚かさないように 控えめに 
でも 早くしないと逃げちゃうから 声にちからを込めて呼びかけた。

 

母からは うんともすんとも 何の返事も
何の「音」も 返って来ない。

 

「ねえ、ママ」
私はスズメを見つめ続けながら もう一度呼びかけた。
ママに見せるまで このスズメを逃がしたくなくて
もし私が見つめ続け 目を離しさえしなければ この子は逃げて行かない気がして
ママ、はやく。 逃げちゃうよ?
そう思いながら でも少し焦りながら 呼びかけた。

 

「んー?」 でも 「なあに?」 でも、 なんでも良かったんだ。
ママが 私が呼びかけたことへ なんらかの反応を
返してくれさえしたら。

 

自分が人に なにか言葉を投げかけたとき
それが相手に届いて 向こうからも 何か反応が返ってくる、
その時間的な「間」というものには たいてい リミットがある。
数秒~十数秒くらいの。

 

そのリミットを過ぎても 相手から何も返って来ないと 
納まるべきところに 納まるべきものが 収まってない という気持ち悪さや
調和を乱されたような 不快感が残る。

 

無視された という、悲しみが襲ってくる。

 

母は沈黙を続けた。

 

「ねえってば!」
三度目に呼び掛けたとき、私の声は苛立っていた。
どうして返事してくれないの?
そう母には言わなかったけど 心ではそう問いかけていた。

 

母はやっと返事をくれた。
「なにようるさいわね! さっさと言いなさい!!」

 

私は一瞬 殴られたようなショックで固まる。 

 

もう 可愛いスズメはどうでもよかった。
母の強い声に驚いて 飛び去ってしまったと思う。
私は無言で素早く立ち上がり、
本をつかんで、ドスドスと
ワザと足音を立てて部屋へ行き、ドアを閉じた。
バタン! と大きな音を立てられないドアであることが うらめしかった。

 

薄暗い部屋のなかで いっしょうけんめい呼吸を整えた。
泣くもんか。
ぜったい、泣くもんか。
あいつなんかに 私は泣かされない。

 

でも すぐに限界は来る。
はっと息を吐き出すと同時に、涙もあふれ出る。
せめて声だけは、音だけは漏らすまいと
必死に声を押さえ込み 早く「これ」を終わらそうと 
私は息を整えることに集中した。

 

夕方になり、父たちが帰ってくる
夕食の支度を手伝いなさいと もうすぐ私に言ってくるはずだ。
その時が 唯一無二のチャンスだった。
私がいまどんな気分でいるかを 彼らに知ってもらう
唯一無二のチャンス・・・・・

 

ノックも無しに 急にバタンとドアが開けられ、
「何やってんだ、お母さんを手伝え!」 と 父が顔をのぞかす。
「やだ!」
ふだん小声でしか話さなくて 小さいころから
「もっと大きな声でお返事しなさい」と言われがちな私が 大きな声で反抗した。
なんでだ って聞いて欲しかったから。
どうして嫌なんだ? って。

 

理由があるの。 訳があるんだよ。
昼間、お母さんにこんなこと言われたの。
かわいい小鳥をみて、いっしょに 「かわいいね」 って、
そう言って、笑顔を交わし合いたかっただけなのに。

 

でも誰も 私の気持ちなんかに関心を持たない。

 

「おまえはどこまで我儘なんだ、ほんとに出来損ないだな!」
父はそれだけを言うとキッチンの母のところへ行き
「なんだあいつは!」 と 文句を言っている。
「ごはん要らないんでしょ」 母は落ち着いて そう答えている。
もちろん 皆と一緒にご飯なんて 食べたい気持ちにはなれなかった。
お腹も空かなかった。

 

家族全員がお風呂に入り終わると
私はこっそりと部屋を出て、お風呂場へ入る。
ドアに鍵をかけて 
家族たちがTV番組を夢中で観ていることに安心して
シャワーのノブをひねる。


家では顔にシャワーを当てて、よく泣いていた。
いちばん「開放的に」泣けたのは、顔にシャワーを当てながら泣く時だけだったから。
運が悪いと
「水道代を考えろ!」という声が、ドアの外から聞こえてきたけど。

 

 


本当は 一度はもう こんな子供時代のことは忘れていた。
どこかでヒーラーをしているという女性と
そんなことは何も知らずに話をしていて、
偶然 私の子供の頃の話になって 
(いつの間にか自分のことを語らされてたカンジ)
その人が
「その頃のあなたが ご両親からいちばん聞きたかった言葉は何ですか?」
と質問されて、
少し考えたら
「どうしたの? って、聞いて欲しかった。 やさしく・・・」と 呟いてた。

 

イタリアでも 
かわいらしい子供たちが 目の前で遊んでて
イタリアの子たちって、本当に子供らしくてかわいいというか
明るい笑顔で 芯から無邪気で
生きてここにこうして居るのが、嬉しくて楽しくて幸せ!
みたいなオーラを、全身から出していて
見てると思わず涙ぐみそうになったこともある。

 

愛おしく 微笑ましく見ていたら 
急に巨大な悲しみが襲ってきた。

 

いきなり 頭から波をかぶったような感じで、
自分では何も考えてなかったし、
ただ子供たちを 可愛いなあ と見てただけだったのに

 

どこか遠い地底の奥底から
どうして私はこんな子供時代を過ごせなかったの
私はなにか悪いことでもしたの
みたいな、
誰も呼んでないのに私の頭の中に入って来て
そんなことを勝手に感じさせるヤツがいた。

 

いちど記憶の中から蘇ってしまうと
折に触れ そのときの映像や 感情が 日常生活で顔を出す・・・
知らないうちに スイッチが押されると。

 

そして そのたびごとに
新たに いちいち哀しくなって 感情が乱されるので
もうコントロールするのはあきらめて 逆に
この時の私は よっぽど傷ついたらしいな と認めてあげる。

 

なんで思い出したのがこのエピソードだったんだろう と不思議に思う。
他にも もっとひどく悲しんだ出来事だってあったのに。

 

私は 子供が欲しいと思ったことがない。
むしろ 怖れてた。
特に 女の子の母親になるのが怖かった。

 

まだ十代くらいの時は
「私がしたような想いを じぶんの子にはさせない」 と自分に誓っていて
きっと私は 自分の子供とは良い親子関係を築けるはずだと信じてた。

 

でも 家族をつくるには 男の人の存在というのがあると気づいて
その人次第で 私の心は 殺されたりもするんだという事実に気づくと
最初から 手を出さないに限る という結論に至った。

 

私の将来のパートナーが
私の父みたいに
娘に何の関心も示さず 自分の妻だけを愛して大事にしてくれる人なら
私の人生の帳尻は合うはずだけれど

 

そんな人はめったにいないし
そんな父親は稀。

 

もし 私のパートナーが 私よりも
娘の方を可愛がり 私をさしおいて 娘にいつも味方するような人だったら
そのとき 私の心は どこに行けば良いのか わからなかった。
寂しさで 狂気の向こう側へ行ってしまうことだって あるかもしれなかった。

 

子供のときからずっと
大人になれば 私のパートナーが現れて 私を守ってくれ
私をいちばんに愛してくれるんじゃないか
とりあえず その可能性はゼロじゃない
そういう 細い糸みたいな 一縷の希望が
無いこともなかった。

 

うちの親は お前みたいな無愛想で可愛げのない人間が
男性に愛されるはずがない。 結婚なんて一生できない。
と 私が物心つく頃には言い聞かせていたから
じぶんの将来に 期待はしてなかったと思うし
余計な夢など見ないで済んでいた・・・・ とは思うのだけど、
それでも もしかしたら って。

 

それに そこがクリアできても
女の子が生まれてくることを怖れていた母親に対して
娘は どんな感情を抱くだろう
二分の一の確率で生まれてくるかもしれない女の子。
私と 私の親との確執は 彼女には何の関係もない。
巻き込まれたら かわいそうだ。
なら 最初からやめておいたほうが良い。

 

クラスメートには ご両親がお別れして
片親と生活していても 親子がとても仲が良くて
楽しそうな子たちもいた。

 

両親がそろっていて きちんと学校や 習い事にも行かせてくれる生活で
親に不満を持つなんて 
私は 心の汚れた 醜い人間だと そういうふうに評価されていたと思う。

 

友達に 親との確執を相談しても
「お父さんはきっと 心配してるんだよ」
「お母さんは あなたのことを大事に思ってるよ、母親だもの」
そういう一般論を早々に機械的に告げられ
私が何を どう感じているのかなんて 関心を持つ人などいなかった。

 

さいきん 表面的には「まともな」家庭に育ったはずの人たちでも
自らは 家族をつくろうとせず
中には そういう 精神的な問題を抱えている人もいる ということに
やっと市民権が与えられ始めた。

 

あたりまえのように 恋をして 家族を作り 子供を育てる・・・
そんなふうには自分の人生を 考えたり 想像したりしていなかったから
私は 自分は「まとも」じゃないことはわかってた。

 

でも 努力して普通の顔をして 社会生活を送ってきたと思う。
今も 努力して 普通の人のフリをしている・・・・心身ともに 健康な。

 

あのとき 行き場のなかった、
誰にも受け止めてもらえず 
存在すら気づいてもらえなかった 悲しみが
消えて無くなったわけではなく
そのままそこで 
目を開けたまま 
乾いてミイラになってただけ。
そのミイラの「想い」は どうやら消えてくれてないことを
今まで何度か
思いがけなく自分の身に起こった現象から 思い知らされた。

 

「頼むよ、大人しくしてて。 私を 困らせないで」
そう願いはするけれど
ときどき 昔の亡霊が 甦ってきて 暴れ出す。 
悲しかったんだ 寂しかったんだ と 泣き叫び始める。

 

そのとき 私は無力なんだ。
なにも できない・・・・理性的な対応が。
大人なのに 子供みたいに反応してしまうことだってある。
しばらくしたら 落ち着くけれど。

 

 

 

離れるなら 離れてって。
構わないよ、 ずっと独りだったもの。 慣れてるし。

 

 

 

 


ここでも まともなフリしてたのにね(笑)

 

でもまぁ、迷ってはいたから いっか。

 

 

 

 

 

南イタリアの「終わらない」習慣

 

ルカの生まれ故郷は南イタリアのかかと側。
海好きの私にとっては残念なことに
アドリア海を臨む海沿いの町ではなくて、
若干内陸の 小さな田舎町。

 

このあたりの住人は
夏のあいだの数ヵ月は、
実家のある町から車で15分くらいの
カーザ・ディ・カンパーニャ(Casa di campagna  直訳で「田舎の家」)という
緑に囲まれた丘の上の セカンドハウスのほうへ、
避暑を兼ねて移り住む。

 

たいてい お庭つきの一軒家で、
ルカの家族の「田舎の家」は
広い庭に オリーブや アーモンドの木が いくつもあり、
普段食べるサラダなどの野菜用に、
お父さんが 小さな畑もつくってた。

 

ここに居るあいだは 食事は 朝昼晩
庭先の、屋根のある広いテラス部分にテーブルを出して、
雨が降らないかぎり いつも外でとる。

 

外でする食事はなぜか、いつもよりもっと 美味しく感じる。 
あれは何でなんだろう。

 

さて こちらで受けた南の「洗礼」。

 

家族だけの普段の夕食は 
いつもたいてい カフェだけか 
デザートといっても スーパーで買ったジェラートや果物で終わるんだけど、
親戚やお客さんと一緒の夕食のときは
「夕食後」が、なかなか終わらない・・・・・・

 

こんな感じ↓

 

食事が終わるとメインのお皿を片付けて、
デザートの用意を始める。
お客さんが 小さなケーキの詰め合わせや
夏の定番で
ジェラートや ズッコット(ジェラートケーキみたいなの)などのデザートを
持ってきてくれることが多いから、
先ずは それからサーブする。

 

みんなで わいわいと包みを開け、 
それを持って来た人のセンスを褒めたりしながら
味の感想を言い合ったり、
どこのお店のなの? といった質問をしたりして
美味しくいただく。 

 

念のため言うと 
お客さんみんな(家族やカップル単位)が、 
それぞれ 何かしら持ってくるから、
その日のデザートは 1種類だけじゃないことが多い。

 

ひとしきり食べ終わると、
「フルーツ食べる~?」 と言って、
マンマがフルーツを何種類か、
切ったり、そのまま持ってきたり、で出てくる。

 

夏だとスイカ、メロン、
メロンときゅうりの合いの子らしいナントカいう果物
(マクワウリとかいうものと同じだったかも知れないです)
ぶどうやプラム系の果物、
珍しいところでは サボテンの実なんかもあった。
南イタリアだったので。フィレンツェでは見ないね☆)

 

そのあとに 
「はい、コレもどうぞ~♪」 と
マンドルラ(アーモンド)や ノーチ(くるみ)など
ナッツ類がたくさん入った小鉢が、テーブルに現れる。

 

これもみんな各々 手を伸ばして
皮をむいて ぽりぽり食べる。
おしゃべりの口も止まってない。

 

しばらくポリポリしてるうちに、
またマンマか おばさんか、
時には男性の誰かが立ち上がり、
「カフェ淹れるわよー。 飲むひと~?」 と声がかかる。

 

オレいらね。 私もいらない。 って人もけっこういる。
この時間にカフェインを摂りたくないと、
カフェドルツォcaffe d’orzoという、
麦茶ならぬ 麦珈琲を飲む人もいた。

 

暖かい飲み物でまったりしてると、またもおもむろに
「誰か食後酒欲しい?」 
と 新たな展開。

 

食後酒のボトルが 何種類か運ばれて来て、
ささ、好きなの飲んで♪ と
小さな、ショットグラスくらいの大きさの、
イタリアではよく見る
<度数の高いお酒用グラス> も配られる。
(↑ヴェネツィアで見つけるのがおすすめ♪
私とルカは あえて不揃いで、いろんな色とデザインのを買いました♪)

 

食後酒は主に 甘みと
アルコール度数の強いリキュールが多くて、
イタリアには何種類もあるんだけど
さまざまな修道院の 中世からの伝統品やら、
その土地々の特産品やら、
北イタリアのグラッパGrappaは イタリア中で飲まれてて、
甘みがなくドライな味だからか 特におじさんたちが好んで飲んでた。

 

私がイタリアで一目惚れ(一口惚れ)したのは
リモンチェッロ Limoncelloという、
カプリ島(近くのソレント半島も含むかも)特産品のリキュールだけど
イタリアには他にも
パッシート Passitoとか、モスカート Moscatoとか、
甘いんだけど、甘ったるい甘さじゃない、
美味しい甘さの食後酒が たくさんあるんだよね・・・・

 

そこまで「食後」がまったりと 長―く続いているのに、
更にそこで
「ところで誰かジェラートもっといる?」
という声が聞こえた時には、

 

に、2周目ですかっ?! と気が遠くなりかけた・・・・・

 

順番はべつに決まってるわけじゃなくて 
多少前後するけど、
内容としてはこれが 「食後」のフルコース。

 

フィレンツェでも イタリア家庭のディナーに招かれたことはあるけど、
デザートとカフェ、食後酒だけで わりとシンプルに終わるのが普通で、
こんなに長々とは続かなかった。

 

 

恐るべし、南イタリアの食習慣・・・・・

 

 

南の肥満問題 というのがイタリア国内で言われているんだけど、
どう考えても原因が見えてるんですが★