これまで と これから

海の向こうからおみやげ持ってきた。

世間とのズレを感じる

 

世間の一般的な風潮に
相変わらず ついて行けてない。
まあ 昔からなんだけど・・・・

 

たとえば 最近は
ポピュリズム というものを糾弾するような
特にマスコミ(世界各国)の論調に
違和感を感じてる。

 

だってそもそも 政治の世界で
とくに民主主義国家なら
ポピュリズムを気にしない政治家が
どこにいるっていうんだろう。

 

昔から政治家たちは 多かれ少なかれ ポピュリストだよ。
選挙に勝たないといけないからね。

 

ポピュリズムはべつに ここ数年で 
初めて流行り始めたわけじゃないのに 
マスコミはなんで 「最近の困った風潮」みたいな
伝え方をしてるのかな。
あたかもそれが 
何か悪いことのようなニュアンスで 
語るのかな。

 

ことさら <ポピュリズム> という言葉を強調して 
それにネガティブな印象を与えることに
どんな狙いがあるんだろう?

 

特に 「何よりも先ず自国民優先」 
といった内容を主張する政治家に対して
(というより そういう政治家にほぼ限定して)
ポピュリスト と言ってるんだよね。

 

その国の政治家が
その国の国民最優先で ものごとを考えてくれなかったら
国民の皆さん(というより「私たち」)は、
一体どーすりゃいいんですか・・・・・

 

自国民最優先、あたり前だと思うんですけど?
シチズン側だって(時計メーカーさんじゃないよ)
政治家にそれを求めて あたり前だと思うのですが??

 

国家間でお互いに それを尊重し合い、
そのうえで外交なり 貿易なりをするのが
健全な国際関係だと 私は思うんだけどな。

 

国民の多くが賛同する意見を言う人に 
支持が集まり、
最終的に その人が選ばれることになるのは
「全く普通の現象」なのに。

 

自分に投票してもらいたい政治家が
多くの人に好かれようとする内容のスピーチをするのも
「全く普通の戦略」なのに。

 

独裁政権でもなければ、
たいていの国の政治家たちは
ほぼみんな ポピュリストと言えるんじゃないのか・・・?

 

私は 
ポピュリズム=民主主義社会での普通の現象 
と 単純に捉えているんだけど・・・・
(もし違ってたら ご指摘いただけると助かります)

 


あと これは国内での話だけど

 

最近ネットでも リアルでもよく耳にする、

 

「最近の日本はおかしい。
自分の国のことを褒め過ぎてて、
自画自賛してるようで 気持ち悪い。
そんな日本が恥ずかしい。」 

 

という風潮も、
そういう反応の風潮のほうに 
私は 気持ち悪いものを感じてる。

 

よくTV番組の例が挙げられてて、
ときどき 私もそういった番組を観ることもあるけど

 

日本の企業努力だとか 
昔や今の 職人さんの技術や知恵を
詳しく解説、紹介しているだけで
私の目には 普通のドキュメンタリーに見えるし、

 

今までそういったものを知らなくて
初めて知ったり 目の前でそれを見たんだとしたら 
たとえ日本人でも、 外国人でも、
「すごい・・・・!」 って思うのは 
普通の反応なんじゃないのか?
と思う。

 

日本にある小さな町工場が とてつもない技術を開発し
それが国内のみならず 海外でも 
多くの人の仕事を助けているだとか

 

自分が住む国の 
そんな 日の目を見ていなかった実情を 
住んでいる人たちや 外国人が 初めて知って
素直に感動して 称賛することが 
なんで恥ずかしく、おかしいことなんだろう。

 

わざわざ 褒めてもらいたから紹介してる
と曲解しているようだけど

 

褒め「させて」いる というより

 

事実として伝えてみたら
それを耳にした人たちが 思わず褒めてしまう様なものを
日本や 日本人は 
たくさん持ってる ってだけのことでしょう。

 

見栄を張って 嘘をついてるわけじゃないんだよ?
ありもしない技術を さも開発したかのように語る とか・・・・
もし 嘘をついてまで褒めてもらいたがっているなら 
それは明らかに 恥ずかしく おかしいことだと思うけど。

 


そういうことを口にする人に 逆に 聞いてみたいな
と思うのは

 

これまでの日本社会では、逆に
日本はまるでダメ、世界に比べて情けないっていうような
話ばかり聞かされてきたよね。
何年も。 
否 何十年も。

 

今まで そういう話に対してもやっぱり、
それをTV番組などで わざわざ声高に言うのは
恰好悪く、恥ずかしいことだと感じていたの?

 

情けない日本と 
スゴイ日本 
両方共が恥ずかしいなら
「とにかく日本はどっちに転んでもハズカシイ」と言いたい 
っていうこと?

 

それとも

 

情けない日本は 普通に受け入れられるけど
スゴイ日本というのは 自分ではどこか
拒否してしまうっていうことなの?

 

外国人が 「日本のここがだめ」 という時は 
そうだそうだと 喜んで聞くのに
外国人が 「日本のここが素晴らしい」 という時は
「褒めてもらいたがって恥ずかしい」と 
侮蔑や嫌悪の反応をするのって
そっちの方が 明らかにオカシイと思う。

 

たしかに 謙虚な方が 日本の伝統的な文化だし
身内に対しては 
謙譲どころか 「愚息です」など わざと貶めて表現したり、
あるいは へりくだり過ぎて 
時に滑稽になってる時もあるけれど
(そういうの、やりすぎであほらしいと感じてる。
何でも 「~させていただく」 の言い方の氾濫とか)

 

でも 今のこの 
「恥ずかしい」と糾弾する風潮の源泉は どうも 
そういった謙遜・謙虚とは
違うところから湧いているニオイのようなものがあり
そこに違和感を感じて 私は気持ち悪い。

 

別のところから湧いて出ているものが 
日本人の気質のなかに 確かにある
謙遜・謙譲の精神をつつくことで、
状況を思い通りの方向に もって行きたがっているような。

 

いつもの、
社会の中に意図的に <流行>や 
<共通の社会認識>を作り出そうとしている
手法の臭いを感じる。

 

これと同じ好み、同じ意見でない人は皆 
「世相に追いついていない田舎者」 「非常識な人」 
と蔑み まるで馬鹿にするような、
昭和の昔から繰り返されてきた手法。

 

そして それに無意識下で影響されやすい人たちの 数の多さ・・・・

 

心の素直さだったり 
新しもの好きだったり
皆と一緒、という安心感を求めるがゆえ、孤独・孤高を怖れるがゆえの
同調の面もある というのは 
人間の心理として理解は出来るのだけど

 

その「意見」は 本当に
自分自身が感じて 自分の内から出てきたものなのか
それとも
サブリミナルのように 刷り込まれて
誰かの意図がいつの間にか
「自分の感覚」と思い込むように 操作されているのか、

 

その感覚の源泉を 
自分のなかに深く分け入って探しに行ってみたら
もしかしたら そんなものはなかった・・・ と
不思議な感覚になる人も いるかも知れないね。

 

私は 日本の良いところ、
自慢できるようなことや ものを 
国民や外国人にアピールする最近の風潮は

 

今まで何年、何十年と
自分の国を卑下して 過小評価して見てきた 
長い時間があったから
今は多少 逆方向に触れて 
バランスしてる状態なんだと思う。

 

そしてそれは
物事を 正常なバランスに戻すためには 
大切で 必要なことなんだと思う。

 

私はよく いろんなことが
イメージ映像として頭に浮かんで来るんだけど

 

この 自国への毀誉褒貶という現象に関しては
よく科学番組で見る、 
物理的な動きをCGで見るような
地球の軸が 前後へとゆらぎながら自転している動きみたいに
イメージとしては ああいった、
作用反作用的な、
物理的な動きのように見える。

 

だってここ近年、急に外国から 日本を訪れる人が増えたんだもの。
そりゃ お客様は大切にする国柄ですから、
彼らの意見は気になるでしょうよ。
日本社会は基本、マーケティング社会だし・・・・

 

日本人は 日本人に対して
その人個人に向き合うより
誰でもまずはカテゴライズして振り分け、
勝手に定義づけした内容をベースに、
その人を理解しようとする傾向を持つ。
年齢だとか、職業だとか、好きなことだとかで分けて
それに名前をつけて。 
(「ナントカ女子」だとか何とか。)

 

ところが 外国人たちは
人種や文化や趣味の範囲が 多岐にわたっているので
日本国内で ふだん使っている手法では 
簡単にカテゴライズできない。

 

商業目的のカテゴライズをするために
日本の何に興味をもっているかとか、
何が心に残ったかとか、
そういうことをヒアリングしていったら、
様々なことを 称賛しながら教えてくれたから

 

じゃあそれを国民のみなさんにも伝えましょう
みなさんのビジネスの マネタイズのヒントにもなりますよ
もっと より良いサービスが出来るようになるためにも
多くの外国の人たちに もっと満足していただくためにも
みんなで自信をもって、頑張っていきましょう!
・・・・って内容のことが いま
世間に出回ってるだけじゃないの?
(てコトは 褒める風潮は経団連さんの思惑ですかねー 
と すっとぼけ☆)

 

<失われた20年>の出口から
やっと外に出てきたところなんだし
経済界の希望としても 社会人の皆さんには
自信をもって頑張っていただきたいでしょうし

 

何ごとも 未来へ向かって 意欲をもって やっていくには
ポジティブなモチベーションって大事だよ。

 

それにだいたい 自画自賛って 
日本人以外の世界中のひとたちは
ごくフツーに やってることだし
別に目くじら立てるようなことでもなければ
恥ずかしがることでもないよ。

 

たとえばあなたがイタリアへ旅行に行って
イタリアの風景や 文化や 
イタリア人に親切にされたことなどを
ほんとうに素晴らしいですねって、イタリア人に伝えたとき

 

いやそんなことありません、この国はダメなんです
と 暗―く どんよりと否定されるより

 

「お気に召しましたか?
褒めてくれてありがとう。
そうでしょう、私の国は素晴らしいんです♪
他にもこんなに素敵なところがありますよ。
ぜひそちらも見ていってください!」
と 喜んで賛辞を受け入れて 
更に自信満々で自画自賛してくれるほうが
こちらだって 彼らのそんな自慢を 
好意的に、微笑ましく 
むしろ嬉しく 感じない?

 

じっさい イタリア人の郷土愛精神には
カンパニリズモCampanilismo 
という名前がちゃんとあるけれど。
(おらが村の教会の鐘の音がいちばん!みたいなニュアンス)

 

褒めてくれる相手に
そうか~ そんなところがすごいと思われてるのか~
で、他にはないの? (ほっぺを赤らめて笑顔で) 
と聞きたがったとしても

 

それだって別に恥ずかしいことでも、
オカシイことでもない。

 

恰好つけてる人ならともかく、
正直な人間の 普通の反応じゃないのか。
(実際にそう聞くかどうかは別として)

 

だいたいCool Japanて言葉だって
外国人がもともと 言い出した言葉よ、
It’s a Sony 
「それってソニー(の技術くらいスゴイ)じゃん」 
と一緒で。

 

日本人が自分で最初に言ったわけじゃない。
今は 観光業振興のキーワード的に 国内でも使ってるけど。

 

それに そういうドキュメンタリー番組だって もともとは
テレ東さんの<YOUは何しに日本へ?>が評判良いから
他局さんもマネして、
外人さんを絡めるドキュメンタリを作り始めたんじゃないの?
(ホントのところは知りませんが★)

 

今は単に リバランス時期なだけ。
それにやがてまた <流行>は廃れるよ、
日本はいつも 一過性のものが生まれては消えていく社会だもの。
次はきっとまた 逆方向の 自虐的な方向に行ってくれるって。
騒がないでも大丈夫。
(それともその始まりが 今の兆候ってことかな?)

 

その時に 果たして
「最近の日本は 卑下しすぎで気持ち悪い。
自分で自分のことを罵ったり、
わざわざ外国人に 自分の国を悪く言ってもらって喜んでる。
こんなのは恥ずかしいし おかしい」 
と言う人が
果たして今みたいに 出てくるかどうか?

 

私はどっちかっていうと そっちの方に興味がある。

 

あるいは今の「恥ずかしい」と思わせることの裏に どんな目的があるのか。

 

とにかく

 

日本の文化や 日本人の特性が素晴らしい って言っている
その<根拠のディテール>は
虚偽でも ごまかしでもない<事実>なんだから

 

逆にもっと褒めたっていいんじゃない?

 

今までの 自虐感覚からのバランスをとるために 
同じ程度・・・・ つまり
あと70年くらいは (笑)

 

冗談はともかく

 

だって
心身の歪みは
ちゃんと リバランスしないでいると
<健康>に 悪影響がでますからねぇ・・・

 


バランスを欠いた状態って 良くないと思うの☆

 

 

 

 

6/13/2017追記:

普段、いただいたコメントは非表示を基本姿勢にしているので
(黙殺するわけじゃないですよ、公開しないだけです^^)
今回も、どうしようかな とちょっと考えたのですが、
この記事を読んでくれる方々と共有したい内容なので、
ご紹介させてください。

 

<小学生の頃、学校やテレビなどで、日本とか日本人は過去にどんなひどいことをしたとか、恥ずかしい人種だとか、、、みたいなことをたくさん聞いていたので、子供の私はそれをまともに受けていました。 (中略) 大人になって、いろんな情報がすべて正しいものではないと分かったとき、とても、ほっとしました(*^_^*) 今は、日本の文化や日本人の性質に、誇りをもてるようになりました♪♪>

 

<日本人は、・・・シャイな性格からきていると思いますが、褒められたり絶賛されると、バランスを取るために否定したくなってくるんですよね。
素直に喜んでいいんですけど、それが(恥ずかしくて)できない。
「日本スゲー!」という風潮に逆らうことが良いことだと思う国民性。
だから、一つの流れがあってそれを否定する勢力も一定数いる。これは至って健全だと思います。> (←引用を中略しまくってしまいました、ゴメンナサイ)

 


ひとつめのコメントは、
私も全く同じ経験をしてきたので、ご紹介したいと思いました。

 

そういった内容を耳にするたびに
「そうだったのか・・・」と思いつつも
正直、言いようのない違和感はずっと感じていたけれど、
子供だったし、それを否定できる材料を
何も持っていなかったんです。

 

でも 様々な情報に手が届く環境になったいま 
いろんなことが腑に落ちました。

 

他人の悪意の不気味さや執念深さ、
そこにあるむき出しの危険、
けれど性善説を妄信するあまり
それに気づいていなかった私自身のナイーブさ・・・

 

だからこそ 今 
そんなことないよ (現在)
そんなこと なかったんだよ・・・・(過去) 
ってことは
もっと周知されるべきだと思ってるんです。

 

二つめのコメントは
そうか、そっちの意味のリバランスも、確かにあるだろうな
と思ったので、長いコメントを書いて下さったのですが、
抜粋して紹介させていただきました。

 

確かに 照れ屋さんですものね、日本人は。
あと そういった番組の元祖は「YOUは何しに~」よりも
和風総本家」と「Cool Japan」だとご指摘も受けました。^^
和風総本家、私も好きでよく観ます。豆助かわいいし♪
正にあの番組を観ていると
「えー、すごーい・・・!」という言葉がよく、
自分の口から出てきます。

 

みなさま いつも コメントを下さったり
私に新しい視点や 気付きを下さったり
本当にどうも有難うございます♡♡

 

 

 

草木の名前を名乗る文化

 

イタリアへ留学する前 ほんの少しだけ
古武術の手ほどきを受けたことがある。

 

もう出発することは決まっていたので、
短期間の習い事なんて 考えもしなかったんだけど

 

ある神社で その古武術が奉納されるイベント(←神事です)を知り
友達を誘って観に行ったら
その子が その武術に一目惚れして
いきなりその場で 
「習いたい!」 と言い出し
「ひとりじゃ不安。 お願い、最初だけでいいから一緒に通って~!!」
と泣きつくものだから

 

彼女が 弟子入り(?)を直談判しに行った場で
私も
「こういう事情なのですが、ぜひ数ヵ月だけでも
学ばせていただけないでしょうか?
数ヵ月でおいとますることは
失礼にあたらないでしょうか?」

 

とお聞きしてみたら

 

「構いませんよ」 
という寛大なお返事を下さったので 
(却ってびっくりしました・・・)

 

お言葉に甘えて 私も通わせていただくことになった。

 

でも 嬉しくて、ワクワクした。

 

とつぜん突拍子もないことを言い出した友達には驚かされたけど、
巻き込んでくれたおかげで 
このような機会を持つことが出来て すごく感謝もした。

 

自分一人では 
その習い事を何年も 本気でやろう
と決心しない限り、
習わせて戴こう なんて、思いつかないもの。

 

早速 言われた通り
練習のために 足袋を購入し、
武術といっても
立つ、座る、歩く ことから、先ず教えて下さった。

 

兄弟子の方々は 
ことさら親身にでも 冷淡にでもなく
けれど 新米の私たちが 動き等を
間違って覚えてしまわないよう 
そういうところはしっかりと見てくださっていて 
必要に応じて 注意したり 細かく教えてくださったりした。

 

その武術では 個人で使う道具を持たれる方もいるのだけど
練習に ご自身の道具を持ち込んでいらした兄弟子のかたに
ある日 とつぜん

 

「なぜ道具袋に 自分の名前ではなく、
このように 草木の名前を記しているのか、解りますか?」
と質問された。

 

見ると、その方の道具袋には、
ご本人の苗字でも 下のお名前でもなく、
ある花の名前が刺繍されてあった。

 

「わかりません・・・・ 
ご家紋の意匠が、そのお花なんですか?」 

 

そうお聞きすると、
その初老の兄弟子の方は、こう教えて下さった。

 

「いいえ、これは単に 私の好きな花なんです。
じぶんの本名を、誰にでも見られるところには書きません。
昔からそうだったんですよ。
もし 本名をさらしてしまったら、
呪いをかけられたり、
住んでいるところを 知られたりします。
時に命をやりとりすることもある
武道を修めようとする者は 
だから 
自分が どこの何某かがわからないように
こういう場合には、銘として 植物の名まえを記したんです」

 

弟たちが子供の頃 剣道を習っていたけど、
竹刀袋などの道具には 
普通に 苗字が縫い取りされていた。

 

子供と大人は違うし、
その武術も 剣道とは違うけど、
このかたたちは そういったところまで 
昔のしきたりに従って、
本当に 伝統を守りながら鍛錬されているんだな・・・・ と
この兄弟子の皆さんがたに 深く感嘆した。 

 

本名を知られないようにする理由についても、
そのとき初めて聞いたので 
すごく興味深い と思った。

 

武術を鍛錬する男性なら、
龍だの 虎だの 
強さを暗示するようなものを銘にしてもいいものを

 

風にそよぐ 何気ない草木の名まえを
銘にするのが伝統なのだ と 
あらためて聞かされると

 

あぁ そうだった、 
ここはそういう文化の国だった・・・・
と 
ひそやかな自負心と共に、 
懐かしく
慕わしく 
自分の帰属する日本文化を想う。

 

そのとき聞かせて戴いたこのお話が 
それ以来 ずっと頭に残っているから

 

それに影響されて

 

渡伊するにあたり
日本の友人たちとの連絡用に
初めてEメールアドレスを 自分で設定したときも
自分の名前をそのまま使おう とは思わなかったし

 

数年前から 知り合う人ごとに必ず聞かれるけど
本名で作らなければならないFacebookのアカウントは 
最初から、
何となく とる気になれずにいた。

 

だって FBは
本名どころか それ以上の 
いろんな個人情報入力の項目があると聞いたので
「友達でもないザッカーバーグ
なんでそこまで教えてあげなくちゃならないのよ?」 
みたいな反感が(笑)

 

そのうち作るから、と言って逃げてたら
連絡するのが面倒くさいんだよね という
周りからのプレッシャーが どんどん大きくなって
苦しい立場に追い込まれたりしております (;_;)

 

考えすぎで 思い違いだってのは わかってるし
ほんとうは 大きくなるのは 
危険よりも
自分の 日常レベルの世界(の境界線) 
なんですよね、きっと。
うん・・・・・

 

ザッカーバーグさん、
「こでまり」とか「八重桜」とかの銘じゃだめですか・・・・
その花、かわいくて好きなんで・・・・
(往生際が悪い★)

 

 

 

 

フィレンツェ空港の謎のアジア人

 

あるとき 日本に一時帰国するために、
早朝 フィレンツェ空港にいた。

 

フィレンツェからは 日本までの直行便は飛んでいない。 
イタリア国内の大きな空港か ヨーロッパのどこかの空港で、
日本行きの飛行機に乗り換える必要がある。

 

ちなみに私はANAをよく利用してた。 
日ごろ恋しく感じている日本語の活字(新聞、雑誌)が多くあり、
それを読めるだけで嬉しいし
(たまに親から送られてくる小包の中の緩衝材代わりの新聞なんか、
皺を伸ばして、隅から隅まで全部読んでた)
映画も日本語だし
Alitalia(アリターリア イタリアの航空会社)みたいに 
しょっちゅう 座席のモニターが壊れてて映らない
なんて心配もないし・・・・
(ほんとなんですよまったくもう (-‘’-;)
そりゃ 飛行機の窓から景色眺めるのも好きだけど
結局のとこ、ワイン飲んで約11時間ふて寝するしかない★)

 

ANAだと経由は フランスのシャルルドゴールか、
ドイツのフランクフルトか ミュンヘン空港が主。

 

そのなかでも私は ミュンヘン経由がいちばん好きだった。 
いちばん体がラクだったし、
空港もコンパクトで 機能的にまとまってて
広すぎないから 迷う心配(笑)もなかったし、

 

ドイツへのルートは アルプスの真上を飛ぶから、
明るい時間だといつも 
アルプスの雄大で、まっ白いパノラマを
上空から という珍しいアングルで楽しめたので。

 

でもこの時は フランクフルト経由。


いつもエアチケットを取っている代理店の人に勧められて
たまには趣向を変えて トランジットで半日、
フランクフルト観光をする予定で エアチケットを取っていた。
フランクフルトに 特に興味を持っていたわけではなかったけど
ゲーテが生まれ育った家があると聞いて、
それなら見てみたい と思ったから。
(良い半日を過ごせました♪)

 

さて
早朝便だったので、人はほんの数人しかいなかった。
お店も バールしか開いてない時間だったし、
その頃のフィレンツェ空港はまだ 建て替え前の旧施設で、
年季の入った金属製のベンチ以外 とくに何もなく
がらんとしていた。

 

そこへとつぜん警察官が一人 待合スペースにやって来て、
「この中に日本人はいないか」 と言った。

 

私以外に日本人らしい人は居なかった。 
スーツ姿の、イタリア人のビジネスマンぽい男性と、
黒人の男性と、
眠ってる子供を抱っこした やはりイタリア人と思われる
お母さんと、お父さんの家族。

 

「シィ、ソノ ジャッポネーゼ・・・」 Si, sono Giapponese….
はい、わたし日本人ですが・・・・ 
と言って、
いちおう 自分のパスポートを掲げて見せながら
その警察官へ近づく。

 

「ちょっと、助けてほしいんだが。 一緒に来てくれ」

 

そう言うと警察官は 
私を すこし離れた場所にある別室へと案内して行きながら、

 

「自分は日本人だというラガッツォがいるんだけど、
我々としては疑わしい。
(Ragazzo「男の子」の単数形、「女の子」はラガッツァ) 
パッサポルト(Passaportoパスポート)を見せて、と言っても
イタリア語も通じない。
本当に日本人か、日本語で何か聞いてみてくれ。
彼が何をしたいのか、状況もわからないんだ。」
と説明してくれた。

 

へー・・・・? と思いながら、
オカピート、ダッコルド(Ho capito, d’accordo. 
わかりました、了解です)」と返事をする。

 

部屋には 他に2名の警察官と、
小柄な、私の印象としては
映画<オーシャンズ11>に出てた中国人に
やたら明るい にこやかな、愛想の良い顔を載っけた感じの
アジア人男性が 一人いた。

 

その男性はすごい笑顔でニコニコしながら、
何かよくわからない短い言葉を、繰り返し言っていた。

 

私は、
「おはようございます。大丈夫ですか?
何か問題なんですか?」
とその人に聞いたけれど、反応は特にない。 

 

私の方にもニコニコと愛想の良い笑顔を向け、
同じ短い言葉を言ってくるだけだ。

 

困って警察官を見ると、
「日本語で、もっと他の事を聞いてみてくれ」
と言われたので
「あの、日本ではどちらにお住まいなんですか?」
と重ねて聞いてみた。

 

けれどその人は、
はい、はい、とでも言うように
しきりに頷いて ニコニコしてるだけで、
私の言っていることが通じているようには見えない。

 

「あの・・・お名前を伺ってもよろしいですか?」 と聞いても
「フライトの時間は、まだ大丈夫ですか?」 と聞いても
白い歯を見せた笑顔のまま
しきりに頭を ぺこぺこと下げて、 ッペン だか ッパン
といったような、短い言葉(?)を ただ何度も 繰り返していた。

 

私も 一生懸命集中して その音を聞き取ろうとはしてみたけど 
やっぱり何もわからないので 
匙を投げて
「失礼・・・・でも私は、この人は日本人じゃないと思います。
少なくとも 彼がしゃべっている言葉は 日本語には聞こえないし、
この人は私の質問に答えてくれません」 
と警察官たちに言うと、

 

「OK、グラツィエ、シニョーラ」
と言われ、最初の警察官が扉を開けて、元の場所まで送ってくれた。

 

私よりも背の低い、おそらく150cmそこそこの 細身で小柄な男性・・・・
東南アジアの人かも知れないし、中国人かもしれないし
どこか他の国の人かもしれないけど・・・・
とりあえず アジア系ではあったと思う。 
ちなみに肌の色は どちらかというと 白かった。

 

なんだったんだろう、あの人? 
警察官たちも、あのあと結局 どうしたのかな。 

 

彼が繰り返していたあの短い言葉が、警察官たちにはどうやら 
ジャパン、ジャパン、と言ってるように聞こえたらしいけど、
私には よくわからなかった。 

 

あのやたらのニコニコ顔も 今思えば、
焦りまくった状態を 笑顔でなんとか切り抜けようとする 
ニコニコ顔攻撃だったのかも知れないなあ・・・・

 

イタリアに住んでいる間、こんなことは このとき一回きりで、
後で他の在住者の友達たちにも聞いてみたけど、
同じような体験をした人は 誰も居なかった。

 

  

なんだか珍しくも不思議なものを 見学させてもらいました。

 

 

 

 

世界でいちばんかわいい挨拶

 

Ciao!
この、言わずと知れた「チャオ!」というイタリア語・・・・
私は 世界でいちばん可愛い挨拶の言葉 だと思ってる。

 

イタリアでは いったい一日に何回、この言葉を言ったり
耳にしたりすることか。^^

 

知らない人や 目上の人には 
「ボンジョルノ」や 
初めまして、という時には「ピアチェーレ」と言うけれど

 

だいたい同世代の若い人だったり
お店などで 少し目上の店員さんに対しては
「チャオ、ボンジョルノ」 って言ったりもする。

 

元気に「チャオ!」と 弾けるように 短く言う時もあれば、
「チャオ~♡♡」 と
手をふりふりしながらのように 語尾を伸ばして言う時もあるけど

 

いずれの言い方でも この チャオ という言葉、
言うと自然と笑顔になる 不思議な言葉なんだよね。
最初の「チ」の音が もう既に (笑)

 

そりゃイタリア人も人間ですから 元気のない日もあるわけで、
そういうときの言い方は
「チャーオー・・・」
という テンションダダ下がりなものになるわけですが。

 

たとえ知らない人からでも
笑顔で 「チャオ!」 
といわれると
無条件に 何やら嬉しい気持ちになって、
思わずこちらも笑顔で
「チャオ!」 と返してしまう言葉でもあるんです。

 

何でだろ、響きなのかな、やっぱり。

 

この可愛い挨拶、日本でも流行ればいいのにな♪ と思ってるし
実際のとこ 
女子高生あたりに なんとなく 流行りそうな感じはあるのに
意外と流行らないね。
(長友選手あたりに言ってもらう? 「アモーレ」に続けて 笑)

 

ときどき自分では リアルで 友達に対して言ってたりするけど、
イタリアに住んでいたことを既に伝えてある人たちだからか
特にドン引かれることもなく (ホントか?)
むしろあちらも 「チャオ」と返してくれたりする (*^-^*)

 

でもやっぱり そういう事情を知らない人が聞いたら
私は 頭のおかしい人扱いされるんだろうな・・・・・
ノリの良い人だったら 合わせてくれるかも知れないけど。

 

 事情を知らない人といっても、友達の友達などに
初めて紹介される時とか・・・・・に、
ポロッと 多少の照れ隠し的に言っちゃいそうなだけ だけどね。
町なかの人にいきなりチャオは、いくら私でも言えません ^^;

 

イタリア人の間で 知らない人同士で、
でも あまりかしこまらず 
少し砕けた(=親しみを込めた)挨拶をする時には 
彼ら(私が住んでいたトスカーナ州の人)は
「Salve サルヴェ!」 という言葉を よく使う。 

 

「チャオ」 と違うのは、
「サルヴェ」は会った時だけで、
じゃあまたね と別れるときには、使われないこと。
(「チャオ」は顔を合わせた時&別れる時、両方使います)

 

あとね、これは主にメールでだけで
その人のお父さんが イタリアの高校の
国語の教科書にも使われる本を書いたジャーナリストだった、
という裏事情が 関係あるのかないのかは
わからないけど

 

携帯メールで 冒頭によく
「Ave Luri! アヴェ るり!」 って書いて来たイタリア人の友達がいた。 

 

アヴェ・マリア とかの 「アヴェ」 

 

その人の解説によると、
「喜びを伴った挨拶の言葉」なんだそうです。
チャオ の古語みたいなもんかな?(ラテン語だと思うけど)

 

その人以外のイタリア人の友達で 
Ave なんて書いて来る人はいなかったから
この人が ちょっと特殊だったとは思う。

 

顔を合わせた時に ふざけて 
お互いにこの挨拶をして ハグをし合い
「私たち、トーガを着なくちゃいけない気分にならない?」
って言ったら 笑ってたけど。 
(Toga=古代ローマ時代の衣装)

 

「こんにちは」という日本語も
響きがきれいで とっても好きなんだけど
(なにか 晴れやかな響きがあるよね)

 

やっぱり かわいいって思うのは 
「チャオ」の方だなー♡

 


みんな、「CIAO!」使いません?

 

 

 

わさび愛

 

イタリア人はけっこう わさび好き。
いちど味を覚えると、次からは彼ら同士で、
<わさび争奪戦>を繰り広げている。

 

フィレンツェは内陸の町なので
魚介類は値段が高い。

 

それでもときどき、イタリア人&日本人の有志メンバーたちで
「お寿司を食べよう!」パーティ を企画して
街の魚屋さんに、
「来週の何曜日に生で食べられるマグロが欲しいんだけど」
などと予約すれば 新鮮な食材も手に入るので、
禁断症状に苦しむことはなかった。

 

2011年くらいからは スーパーマーケットで
パック入りの寿司(6~10ピースくらい入ってるやつ)も
売られ始めるくらい、認知度と人気は上がってきてたしね。

 

お寿司なんて 日本では、
いわゆる ご家庭の手巻き寿司か、
パックを開けてご飯と混ぜるだけの ちらし寿司以外
自分で作ったことなんてなかったけど、

 

留学生仲間のお料理上手な人から習って、
(なんたってシェフ修行で来てる人たちもいる)
スモークサーモンで手毬寿司 とか、
ちゃんと巻き簾と海苔を持ってきてるエライ人もいたので 
巻き方を教えてもらったりして
私も多少 それっぽいモノを作れるようになった。

 

今から留学に行く人たちは、
お寿司を作れるようになってから出発すると
間違いなく 「身を助ける芸」 になること請け合いですよ、
真面目な話。

 

この技術持ってたら、バイトだってすぐに見つかるんじゃないかな。
あなたがちゃんと「日本人」だってとこが先ず、高価値だしね。

 

私がフィレンツェに住んでいた頃 
とくに 2005年ぐらいからは
イタリアでは SUSHIはオシャレで スタイリッシュなイメージで
よく 「〇曜日は寿司アペリ(ティーボ)」 とかやってる
モダンなロカーレ(Locale 夕方や夜からお酒の飲める店)がそこそこあり、
日本人留学生のアルバイトたちが 
そういうお店の厨房で 頑張ってくれてたりした。

 

でも 2000年代初めくらいでは
値段の高めな フィレンツェの和食店の走りのひとつ(イタリア人経営)では
寿司は 日本に滞在経験のある たしか中東系の人が握ってて
それ以外の和食は、でも 日本人シェフが作ってたんだったかな?

 

中国人がやってる寿司バーにだって、お客さんわりと入ってたくらいだけど
中国人の安い店も イタリア人経営の高い店も
食べてみると そういう店のお寿司は共通して
シャリがひどかった★ (注*データは古いです) 

 

別にそんなお店に食べに行ったり アルバイトをしなくても、
基礎的な作り方を知っていれば
寿司が恋しくなった時には 自作できるし 
友達たちと一緒に作って食べるのも、楽しいもんだ。

 

とにかく 
美味しそうな食事会の話に 人が集まってくるのは
世界中どこであっても自然な現象で(超~ナチュラル☆)

 

参加するからには
あまり守りに入らず、未知の味にも果敢に挑戦する
というのが、私が見たイタリア人たちの姿勢。
(最初に口に入れるまでの表情が見ものだった人もいたケド 笑)

 

料理を作ってくれた人へのリスペクトや 感謝という気持ちも、
日本人と同じように 彼らも持ってるしね。

 

南イタリアの老齢の人たちの中には
お寿司がムリな人もいたけど
フィレンツェではとりあえず、20代~60代くらいの友人たちは皆
喜んで食べてくれてた。

 

ちなみに
「日本人はみんな寿司が作れるの?」 と
目を輝かせて聞いてくる人たち(イタリア人だけじゃなかったので)は
たいてい頭のなかで 江戸前を思い描いてるから

 

私は
「私のマンマや ノンナ(Nonna おばあちゃん)も作ってたけど
寿司って、一種類だけじゃなくて いくつか種類があるんだよ。
たとえばピッツァも、
ピッツェリーアでピッツァイウォーロ(Pizzaiuolo ピザ職人)が作るピッツァと、
家でマンマが作るピッツァは、美味しさが違うでしょ?
だから 私が作れる寿司は 家族用のものなんだ。」

 

と説明してあげると、
「あ~ なるほどね~」 と 納得してくれて
あちらの 高まる期待値と
こちらの 重くなるプレッシャーを セーブできた(笑)

 

日本食に興味があったり、
既にもうどこかで わさび入りのものを食べたことがあって、
味に慣れているイタリア人たちは 

 

「ワサビは? ワサビはどこっ?!」
「オレも欲しい。次まわして!」
と 忙しく手渡し合ったり

 

わさびを知らない 未体験の人にまで

 

「オマエまだ食べたことないの?
美味しいぜ、こうやってサルサディソイア
(salsa di soia 大豆のソース=醤油のこと)に溶かしてだな・・・」
と彼ら同士で伝授したりしてて、
チューブの奪い合いで、すぐになくなってしまう。

 

提供しているこちら側としては
キミたちっ! それ、次に日本に里帰りするまで、手に入らないんだぞっ!!
と心の中で叫んでたりする・・・・・

 

なので日本へ戻ったときは、必ず数本 持って帰ってくるようにしてた。
こちらでも中国人のやってるアジア食材の店で粉わさびを売ってはいるけど、
私は買ったことはない。
普通に美味しいんだろうか・・・(そもそも日本のものなのだろーか?)

 

そういえば、いちどワサビの手持ちがなくて、
「オレ持ってるよ」という日本人の友達に頼んだら、
粉ワサビで ボウルにたくさん作ってくれたまでは良かったんだけど

 

イタリア人の友達(男)の一人が、
それをアボカドディップと勘違いして <大量に> 口に放り込み、
ジュラシックワールド(?)ばりに 口から火を噴いて
たいへんだったことがあった・・・・・そうだ。
(後から 「大変だったんだよー、可哀想だった。」 と聞いた。)

 

私は台所でずっと料理してたので、
そんな騒ぎがあったことなど、つゆ知らずだったの。

 

それを聞いて心配になったので、大丈夫かなと様子を見に行ったら、
水・ジュース・ワイン・その他を
「皆ですぐに 寄ってたかって飲ませてくれたから大丈夫だったよ」
と、わりとすぐに回復して、
また楽しくパーティに参加してくれてたから良かったけど。

 

んー、でもちょっと火を噴いてるところ見てみたかったな♪
めったに見られるものじゃないよね♡ (←鬼★)

 

驚いたのは、こちらが特に何も説明していないのに、
「これはインテッリジェンテだ(intelligente 「頭良い」)。
生魚に居るかも知れないバッテーリ(batteri 「バクテリア」の複数形)
を殺す役割もしているに違いない」と、
わさびを使用する効能に 自ら気づき、
納得しながら食べているイタリア人もいたこと。 
(わざわざ私のとこにそう言いに来たので、
「その通りです。ブラーヴォ!」と拍手を送りました。)

 

お約束の、少し鼻にツンと来て わたわたと暴れまわる人を 
みんなで微笑ましく 温かい目で見守るのも、
その場の連帯感と和みが生まれるステキな時間だし

 

私はそれを「わさびの洗礼」と呼んで、
それが その日初めて寿司を食べたというイタリア人だったら、
「おめでとう。これで仲間になれたね♪」 と笑顔でお祝いを言っていた。

 

涙目で嬉しそうな笑顔を返してくれるのが
印象的だったというか、痛々しかったというか。

 

あと 友達の話だけど、
日本のお土産で 柚子胡椒をイタリア人にプレゼントしたら、
「なにこれ、美味しい!」と、どハマリされて、
異常に喜んでもらえたのは良かったんだけど、
その後、
次は日本にいつ帰るの? また柚子胡椒買ってきてくれる?
と事あるごとに要求されるようになってしまい、
「余計なものを教えてしまった・・・」
と軽く後悔した という話も聞いた。

 

 


意外とイタリア人も、辛いモノ好き多いみたいよ。

 

 

 

 

関連記事: 

luriha.hatenablog.jp

 

 

 

 5/16/2017追記:
「私の友達はわさび大嫌いな子が多かったので意外です」
というコメントを下さった方がいらしたのですが、
たしかに 
よく思い出してみれば、私の周りのイタリア人達は
あまり一般的ではなかったかも・・・・

 

食べ物にこだわりがあって、 
普通のスーパーやメルカートよりも
わざわざBiologico(ビオロージコ 無農薬・有機農法・オーガニック系等の意味)
の店に買い物に行ってたり、
日本のだけじゃなく、他の国のエスニック食材(アジアやアフリカなど)にも
興味を持ってる人が多かったです。

 

ご参考までに^^

 

 

 

 

実験継続中

 

このブログの主旨ではないので
今後はこういった内容は書かないと思いますが
前回の記事が 100記事めだったみたいなので
ちょっと 自分のブログを振り返ってみますね。

 

3月に 始めて1年が経過したことは書きましたが
このブログ、実は「実験」を楽しみながら 
その経過観察中だったりもするんです♪

 

自分のやりたいスタイルで 好きなように書いてみて
それがどの程度 どんなふうに 受け入れられたリ 
受け入れられなかったりするのか?

 

やりたいスタイルとは

 

Webライティングの王道セオリーに反して
先ず
アイキャッチングのための画像なし。
TwitterFacebookなど、他SNSとの連動ナシ。
リアルの友人知人への告知もしていないから、
友情や温情(?)によるアクセスや拡散もナシ。
(ごく最近、仲の良い友達2~3人に教えたけど
「他の人には言わないでね」と頼みました・・・ハズカシイので)

 

文章のみで しかもやたら長いくせに
(お忙しい皆さんのお時間、有難うございますm(_ _)m)
段落分けも、まとめもなく、
「誰でも読める平易な文」も心がけず、
漢字も普通量、文章のなかに入る。

 

はてなさんはSEOに強い、というウワサはあるけど
それ以外 ほぼコンテンツ(内容とスタイル)のちからだけで、
いったいどれだけ読んでもらえるものなのか??

 

さあどんな感じなんでしょうねっ? と 
自分ではこの実験、
けっこう楽しんで始めてみました^^

 

いま現在の結果としてはですねー
PVはやっとこさ 1万に届くとこですね。
1年以上やってて。(^_^;)>

 

ちなみに はてなさんのトップページで紹介されたことはないです、
たぶん一度も。
はてな関連からのアクセスはいつも 1%とか、2%だし
トータルが、maxでも5%を超えたことないから
ないと思ってるんだけど・・・・違うかな?
(あと、いつも約10%が解析データ「外」なんだけど、
残りの10%って何なんだろう?)

 

お、新しい現象だな、 と最近思ったのは
年末ぐらいからちょっと忙しくなって 
1~2週間に1回とか、
月に4本程度しか 新しい記事をUPしていないのに
毎月平均1200程度、安定的にPVがあること。

 

これがなぜなのか よくわからず
好奇心で
よし。新しい記事をどれぐらい「書かなかったら」、
一日のPVが1ケタとか、顕著に下がって来るんだろう? と
「実験実験♪」と ウキウキしながら経過観察してみたりしたけど
過去記事に検索からアクセスしてくれる人が多いウチの場合は
意味がないことに 後から気づきました★

 

ときどき ハマッて読みふけってくれる人もいるみたいで、
局地的に 棒グラフが ぐいーんと育ってたりすると 
あらあら、と お茶を淹れてさし上げたくなる(笑)

 

私の文章とか 話す内容って、
なんか硬いというか、小難しい・・・のかな? 
昔から友達に
「るりちゃんの言ってることって、難しくてよくわかんない」 とか、
「手紙に漢字が多い」 とか 
文句(?)を言われたことが何回か 
実はあります^-^;

 

本人はことさら 難しいコト言ってやろうとか、
漢字をたくさん使ってやろうなんて、まったく思ってないんだけど
そういう印象を与えるみたい。(ごめんよぅ ;_;)

 

ネットに挙げる文章は
なるべく平易にわかりやすく、
センテンスも短めにして 
「私」など、簡単な文字も敢えてひらがなで書き、
漢字の多用を避ける。
長めの文章は数段落に分けて それぞれに小見出しをつけ、
さいごに「まとめ」で要約、
冒頭に目次もつけてあげると親切・・・・・ と、

 

「多くの人に読まれるためには そういう書き方が良いんだよ」
ということは 知識として 仕入れはしたのだけど

 

私は

 

「もし目にする文章が、そんな<親切>なものばかりになったら、
ますます現代日本人の読解力は、落ちていくじゃない。
ひいては、
知能のレベルや 母国語である日本語力が 落ちていくじゃない。
長文どころか、ほんの数行の文章でさえ、
ちゃんと意味がとれない人が増えているみたいなのに・・・・」

 

と思ってしまって、

 

「そんな書き方、私はしたくない」と 
逆に決心してしまった。 (笑)

 

ブログ始める前は
ひたすらROM専門(←死語?)だったネット上に
自ら姿を現す という、
未知で不慣れの領域で、なにか望まない状態に直面するのは
面倒くさくてヤダな と 
見えない何かに対しての、説明しがたい警戒心もあったけど

 

どうやら へたに
不特定多数 and/or  理解力において玉石混交 
の耳目にさらされたり 
注目されたりしていないぶん、
ヘンな人にからまれたり ヘンなコメントも来ないし

 

なまじ誰にも読みやすいわけじゃないからこそ
こんなのを面白がって読みに来る、
「私にとってもご縁を持ちたい人たち」 だけが
自然に集まってくれてるのかも?

 

てワケで 今のところは全く悩みもなく 快適で
さいきんやっと 自分から
ぷらぷらと他ブログさんにもお邪魔して 
コメント欄で楽しく交流させてもらったりも できるようになった^^

 

そうだ、
ひとつお詫びをお伝えしたいことがあります。

 

私 このブログは ノートPCで、
キーボードをテケテケ打って書いていて
このまえ 初めて
はてなさんのデザインのページで
自分のブログのスマートフォンでの表示を見てみたら

 

めっちゃ読みづらくて
あちゃあ・・・お気の毒なコトしてたんだな、わたし・・・・
と思ったの。

 

レトロ好きな私は、未だに元気なガラケー使用者でして、
そもそも携帯電話ではネットを見る習慣もなくて
ぜんぜん気づいてなかったんです。
気に入っている腕時計も自動巻きだし
カッフェはマキネッタで作るのが好きなアナログ人間という・・・

 

スマフォの人、読みづらいブログで
ごめんなさいっ! m(_ _)m
でも
あんな表示にも関わらず、たぶん頑張って読んでくれてる人も
きっといるんだろうな と思うと
ありがたいです・・・・♡

 

文章が長いぶん、
言葉群で こまめに分けて 
こんな感じに↑スペースを開けるのが
自分なりの 読者さんへの
「見やすい表示サービス」のつもりでいたのだけど
・・・・・逆にやらないほうがいいのかな??

 

他の人たちの 丁寧に構成されたブログを見たりすると
私も本来は もっとたくさんの人に読んでもらえるように
努力するべきなのかもな・・・・
なんて、反省させられたりもするんだけど

 

あえて ここもアナログ的に
口コミとか 自然に裾野が広がるように増えていくなら 
自分としてはそのほうが望ましいって気持ちが
心の底に 実はあるのね。

 

自らいろいろ工夫してアクセス数を獲得する、という手段ではなくて、
より 偶然の出会いのちからを 経験してみたい、というか・・・・

 

書いて発表することだけで けっこう満足な気持ちになってるし
読まれなかったところで 誰かに迷惑かけるわけじゃなし

 

むしろ 飽くまで 
気に入って くりかえし読みに来てくれてたり 
見つけてくれる(た)人にだけ向けて書いて
ここに辿り着けてない人たちには
「いや~勿体ないね、良いブログなのにね♪」 
(自分で言いますよ~ そう思って書いてるし、そうしたいと思ってるもの)
と 心でエールを贈るだけかな。
縁があったらいつか会いましょう ってなもんで。

 

ちなみに


自分としては意外な、よく読まれている記事は
luriha.hatenablog.jp

 

luriha.hatenablog.jp

  

 

多く読まれていて、自分でも嬉しい記事は

luriha.hatenablog.jp

 

 

地味に人気記事らしいのが 

luriha.hatenablog.jp

 

luriha.hatenablog.jp

 

 

へぇ~・・・って思ったりする。(笑)

 

こんな感じで 今後もマイペースでやっていきますが
気に入って読んで下さってる方 どうもありがとう♡ 
どうぞこれからも おつきあいくださいね♪

 

 

 

 

 

意思表示を怖れないこと

 

たぶん
「感じが良くていい人」と みんなから思われたいのは、誰でも同じ。
誰かと 何かで 言い争ったりとか
自分から人に嫌われにいく人なんて、まずいない。

 

それでもさ

 

判断力のない子供時代ならいざ知らず
とっくに成人している大人の立場で

 

いつでも 何でも、 何に対しても
「全く」自分の意見を持たなかったり、あるいは言わなかったり

 

意思表示をなにもせず

 

「私は双方どっちにも味方します」
あるいは 
「どっちの味方でもありません」
な態度をとり続ける人たちって
自分で どう思って そうしてるんだろう。

 

本当に いつでもその態度でいることが良いのだろうか とか
自分がこれについて意思表示をしないのは 
こういう理由があるからだ とか

 

じっさいそれをしている人たちは、
ちゃんとそれについて考えたり 状況分析をやったうえで そうしてるのかな。

 

私見だけど
私は してないと思うんだよね。

 

そういう人たちの多くは
自分の頭で ものを考えることをしなくって
いつも どこからか聞いた話か
自分の思考を通ってない 「だれか」 別の人の意見を 
そのまま信じてるような人たちなんじゃないかと思う。
(違っていれば、良いんだけど・・・・)
だから単に判断力がなくて、意見を言えない。

 

もちろん
世の中の全ての物事に対して 
いつも明確に自分の見解があるわけもなく
たいていは 
両方の言い分も聞いてみないとわからない とか
いま見えてる事だけがその問題の全てなのか、
まだ判らないから判断できない とか
個別の さまざまなケースがあるけれど

 

それでも 
一人の大人として 態度を明確にすべきことだって 
普段から 日常に たくさんあると思うよ。

 

たとえば

 

差別はイケナイとか、判で押したように みな言うけれど
しちゃいけないのは 「謂れのない差別」 だけだよ。

 

「差別」という言葉は、
なにか理由があって、他とは区別して扱う人や、状況があった時に
「区別された側」が使う言葉で
区別する側にとっては、単に「区別」と呼ぶ行為のことなんだと思う。
(もちろん いろんなケースがあるけれど。)

 

「理由のある差別」は、
なぜそれが必要なのかを きちんと説明できるものならば 
むしろ 見分け方の能力を高めるためにも 大人から先ず
日常生活のなかで 冷静に 公正に考えた上で 
やってみせるべきものなのかもしれない。

 

「判断して区別する」ってことを 自分自身で学ばせたり 教えたりしないと、
これから大人になっていく子供たちだって 
善悪すら しっかり学べない。

 

いじめっ子は、いじめなんかしない子と 明確に区別して、
特別に指導したり
罰を与えたりするべきだし 
それを「いじめっ子が差別されるから可哀想」なんて言うのは違うでしょう。

 

その子にいじめられて苦しんでる子がいるのに。
悲しくて、絶望して、自殺までしてしまう子がいるのに。

 

「おまえはいじめたんだから、その代償を受けなさい」という筋を通し
大人全員が はっきりと意思表示をしないと
子供たちは いじめが悪いことだと学べない。

 

「なんで」それをしたかっていう理由を問うのは、次の段階だ。
情状酌量はそこですれば良い、その子の話をちゃんと聞いてあげて。
必要なら 心のケアもしてあげて。

 

でも

 

「いじめた事実」に対しては いっさい容赦せず 
それが問答無用で悪いことだと認めさせ、
先ずはそれを 厳しく叱らないといけないと思う。

 

どんな事情があろうが、自分の身勝手な都合で
他人に対し やってはいけないことがあるんだって。

 

それで他の子に 
「君はいじめっ子だから一緒に遊びたくない」と言われるようになっても
それは理由のある差別であって、不当な差別なんかじゃない。
単に自分自身がしたことの代償。

 

いじめたことを反省して、
いじめた子に謝ったり、仲直りして、
二度ともういじめをしなくなっても
しばらくの間「あいつはいじめっ子だ」と言われ続けることは仕方ないだろう。
たとえば1年 いじめ続けていたなら 
やっぱり名誉回復には1年くらい かかるんじゃないかな。

 

その代償をちゃんと受けた後に、たとえば
何年たっても いつまで経っても 「いじめっ子だった」事実は消えないにしろ
それを糾弾し続けることは 
また別に 考察しなければならない事だとは思うけど。
(それは実際にいじめ被害を受けた人の、心の傷の深さにもよると思う)

 

大人たちが気を付けなければいけないことは
その「理由のある差別」を きちんとコントロールして
子供たちだけに 状況を任せないこと。

 

子供たちだって 大人といっしょで
特に集団になると、権力を笠に着て、暴走することがある。

 

元いじめっ子が「きちんと反省しているのであれば」 
大人たちはその子も 一人の子供として 守ってあげる必要がある。
近い将来 今度はその子が
「被害者」の立場になってしまわないように。 


「〇〇君は、ちゃんと反省してるんだから、もう赦してあげなさい。
実際にもう、いじめなんかしていないのを見てるでしょう?
だから仲良くして 一緒に遊んであげなさい」って。

 

大人の責任って、子供に対しては
小さくもないし、簡単でもなく、
実際のところ 非常に骨の折れるものなんだと思うけど
学校でも 家庭でも 
たぶん社会でも
大人たちは じぶんの忙しさにかまけたり
じぶんの保身や 怠惰を優先させて
次世代を教え諭すことについてや
現代社会をより良い方向へ導いていくことについては
すごく手を抜いてるんじゃないかと思う。

 

最近の風潮では 親が子供に  
「いじめっ子を止めるといじめられるから、黙ってなさい」って教えるって
ほんとなのかな。
見て見ぬふりをしろって 言い聞かせてるってことでしょ? 
たとえ自分の目の前でひどいことが起こっていても 止めなくて良い 
って教えてるってことでしょ?

 

恐ろしいよ。 

 

私は 小学校の先生だったおばあちゃんから
「いじめられてる子がいたら、かばってあげなさい」 
と教わっていたから

 

うちの小学校では せいぜい少人数の意地悪グループが 
悪口を、本人に聞こえるように言うって程度のいじめしかなかったけど
(たぶんまだ平和な世代で その後 私が通った中学高校では
たまたま いじめもなかった)

 

それでも 
そうやって悪口を言われてる子が 
下向いたまま泣いてたり、
ちいさく縮こまったりしてるところに居合わせたら

 

その子の隣に立って、 
そこから意地悪グループの子たちに向かって
「〇〇ちゃんは、 ~じゃないよ!」 
「いじめる子って、かっこわるい」
くらいは言うようにしてた。
おばあちゃんからの言いつけを 私なりに守るために。

 

そういうところで 勇気(?)を培っていたからか
自分が言葉で攻撃されたりした時も 
「ちがうもん」とか 
ちゃんと意思表示して 言い返してた。

 

1 対 大集団 でされない時代だったから 出来たんだとは思う。
あの頃 私の学校では先生達もまだ ちゃんと介入してくれる人たちだったし 
クラスメイトの中にも 
「そうだよ、るりはちゃんの言う通りだよ」って言って、
味方になってくれる子たちもいた。

 

(いじめに関しては もう一つ気になってる事がある。
親たちは「うちの子が いじめられたらどうしよう」とは思うのに
「うちの子が いじめたらどうしよう」とは考えないから
「誰かにこういうことをしちゃダメだよ」という教育が
先ずされていない、という話。
この記事の主旨とは違うけど、ついでなので一言。)

 

「意思表示」っていうのは とても大切なことなんだと思う。

 

なにか解決するべき事態が起きたとき
意思表示を 
その場にいる全員が全くしないで 黙ったままだと 
力の強い人間の 独壇場になるだけなのに

 

なにもオリジナリティあふれる意見を言う必要はなく
はっきりとした自分の意見がないなら
せめて 良識的な声をあげる人がいた時に
すかさず 「そうだ」 と賛同する意思表示をして
それが「大多数」になれば
ただその場での力が強いだけの人が 幅を利かすことにはならないのに。

 

「そうだ」と はっきりとした言葉で賛同すらせずに 
その判断への関わりを避けようと 
あいまいに 黙ったままの人が あまりにも多いから

 

せっかく勇気を出して声をあげた人が
孤立したり 少数派になってしまい 
声がかき消されてしまう。

 

自分の身を守りたいのは解るけど
それを多くの人たちがずっと続けてきたから 今の日本は
子供の社会も 大人の社会でも
良識的な人間がマジョリティになれず

 

実際のところ どこかおかしいことが 世の中ではまかり通っていて
加害者や 非常識な人たちが より強く 
被害者や 常識のある人たちが より弱いままの この現実のなかで

 

人によって置かれている状況は違うから 
そこは個々人で出来る範囲もあるだろうけど

 

社会の問題について 人間関係の問題について
保身のために それでも今まで通り
このままずっと 沈黙を続けるべきなのか
いま
もういちどよく 考えて欲しいと思う。

 

私は 意思表示をせずにずっと黙っていることが 
「大人の対応」で
それがいつでも「良識的な良いこと」だなんて、 
違うと思う。

 

少なくとも じぶんは知恵も常識も持っていると自覚してるなら 
逆に
「何も意思表示をしないのは恥だ」くらいに 思ったほうがいい。

 

自分の判断力に自信がなくて出来ないなら
「いまの自分」としてどう思うか でじゅうぶんだし
(人間は日々勉強・日々成長だから)
まだまだ未熟だと思うなら
自分で努力して、それを磨くべきだし。

 


<義を見てせざるは勇無きなり> 
ギヲミテセザルハ ユウナキナリ

 


せめてこの古い日本語を
もう一度 日本人の 心のなかで生き返らせないと
失われていくべきでないものを 守り切れなくなってくる。
なにか大切なものを 永久に失ってしまいそうな
そういう危機感を感じてる。

 

潜在的マジョリティの人たちは 「まともな」人たちなのに
その人たちが 黙ったままで
声を挙げて意思表示をしないから 
ただ大きい音を鳴らすだけのマイノリティに
<日本の世相>を乗っ取られてる。

 

自分には何も責任がない なんて思っちゃいけない。
黙っていないで 意思表示をしていこう。

 

これは心理戦でもある。

 

非常識な人たちに 非常識なことを続けさせず
「あれ、自分は間違ってる?」 「自分は 非常識だと思われてる?」 
「自分に味方してくれる人が・・・いない?」 と
自ら考えさせ、その声をトーンダウンさせるための。

 

彼等にとって居心地の良い、「やりやすい」環境を 与えないための。

 

たった一人で 頭のおかしい人に立ち向かえって言ってるわけじゃない。
状況判断は いつだって最優先事項だし
「保身」という言葉は同じでも、その動機と状況にはバリエーションがある。

 

ただ
<本当のマジョリティ>としての立場を きちんと取り戻そう、
そのためには 一人ひとりが 八方美人を決め込まないで
保身ばかりに走らないで
沈黙を破って 
意思表示をする必要があるんだ と 私は思うから、
それを書いてる。

 

「そうだよ・・・その人の言う通りだと思うよ」
あなたの心がそう感じたときに、心の中だけでなく、
ちょっとだけ勇気をだして 
声に出して 言うようにすればいいだけ。
はっきりと 味方してあげればいいだけ。

 

私のおばあちゃんが教えてくれたように
子供たちには 
黙っていなさい ではなく、
「いじめられてる子がいたら、かばってあげなさい」 
と教えればいいだけ。

 

教師や校長ですら 保身のために口をつぐんでいる現実のなかで
子供たちの心や 身体を守るためには 
子供達同士で直接 お互いを守り、かばい合うようにさせるしかないんじゃない?

 

会社や 社会のなかで
良識的、道徳的な意見や 規律の軸が
変な方向に行ってしまわないよう 
皆がそれぞれ 
自分の意思表示をすることで 気を付けるようにしていったら
今の社会の現状は どう変化していくだろう。

 

沈黙した水面に かすかな揺らぎさえ起らなかったら
その水は静かにただ よどみ続けていくだけだけど

 

ひとつひとつは たとえ小さな声(発信)でも
その小さな音が重なり合って 大きく響き渡っていったり

 

誰かの勇気ある 小さなひとことが 
本来の<マジョリティ>の 最初の同心円を 
きっと生んでいくよ。

 

和をもって貴しとなす文化を、 
社会を、 
これ以上 いびつに歪ませたり 
小さくさせて やがては 消えさせてしまわないように。

 

風のなかで 一人ひとりの手のひらが集まって 
しっかりと風を防ぐ 厚い壁になり
今にも消えそうになっている 小さな火を 
決して失ったりしないように。

 

自分でどう感じていようと
あなたの声は
取るに足らない 価値のないものなんかじゃない。

 

大人であるあなたの喉から発せられる 小さな声のひとつひとつが 
世論や社会常識を かたちづくっていく。

 


どうか明確に

「意思表示」を。