これまで と これから

海の向こうからおみやげ持ってきた。

フィレンツェ空港の謎のアジア人

 

あるとき 日本に一時帰国するために、
早朝 フィレンツェ空港にいた。

 

フィレンツェからは 日本までの直行便は飛んでいない。 
イタリア国内の大きな空港か ヨーロッパのどこかの空港で、
日本行きの飛行機に乗り換える必要がある。

 

ちなみに私はANAをよく利用してた。 
日ごろ恋しく感じている日本語の活字(新聞、雑誌)が多くあり、
それを読めるだけで嬉しいし
(たまに親から送られてくる小包の中の緩衝材代わりの新聞なんか、
皺を伸ばして、隅から隅まで全部読んでた)
映画も日本語だし
Alitalia(アリターリア イタリアの航空会社)みたいに 
しょっちゅう 座席のモニターが壊れてて映らない
なんて心配もないし・・・・
(ほんとなんですよまったくもう (-‘’-;)
そりゃ 飛行機の窓から景色眺めるのも好きだけど
結局のとこ、ワイン飲んで約11時間ふて寝するしかない★)

 

ANAだと経由は フランスのシャルルドゴールか、
ドイツのフランクフルトか ミュンヘン空港が主。

 

そのなかでも私は ミュンヘン経由がいちばん好きだった。 
いちばん体がラクだったし、
空港もコンパクトで 機能的にまとまってて
広すぎないから 迷う心配(笑)もなかったし、

 

ドイツへのルートは アルプスの真上を飛ぶから、
明るい時間だといつも 
アルプスの雄大で、まっ白いパノラマを
上空から という珍しいアングルで楽しめたので。

 

でもこの時は フランクフルト経由。


いつもエアチケットを取っている代理店の人に勧められて
たまには趣向を変えて トランジットで半日、
フランクフルト観光をする予定で エアチケットを取っていた。
フランクフルトに 特に興味を持っていたわけではなかったけど
ゲーテが生まれ育った家があると聞いて、
それなら見てみたい と思ったから。
(良い半日を過ごせました♪)

 

さて
早朝便だったので、人はほんの数人しかいなかった。
お店も バールしか開いてない時間だったし、
その頃のフィレンツェ空港はまだ 建て替え前の旧施設で、
年季の入った金属製のベンチ以外 とくに何もなく
がらんとしていた。

 

そこへとつぜん警察官が一人 待合スペースにやって来て、
「この中に日本人はいないか」 と言った。

 

私以外に日本人らしい人は居なかった。 
スーツ姿の、イタリア人のビジネスマンぽい男性と、
黒人の男性と、
眠ってる子供を抱っこした やはりイタリア人と思われる
お母さんと、お父さんの家族。

 

「シィ、ソノ ジャッポネーゼ・・・」 Si, sono Giapponese….
はい、わたし日本人ですが・・・・ 
と言って、
いちおう 自分のパスポートを掲げて見せながら
その警察官へ近づく。

 

「ちょっと、助けてほしいんだが。 一緒に来てくれ」

 

そう言うと警察官は 
私を すこし離れた場所にある別室へと案内して行きながら、

 

「自分は日本人だというラガッツォがいるんだけど、
我々としては疑わしい。
(Ragazzo「男の子」の単数形、「女の子」はラガッツァ) 
パッサポルト(Passaportoパスポート)を見せて、と言っても
イタリア語も通じない。
本当に日本人か、日本語で何か聞いてみてくれ。
彼が何をしたいのか、状況もわからないんだ。」
と説明してくれた。

 

へー・・・・? と思いながら、
オカピート、ダッコルド(Ho capito, d’accordo. 
わかりました、了解です)」と返事をする。

 

部屋には 他に2名の警察官と、
小柄な、私の印象としては
映画<オーシャンズ11>に出てた中国人に
やたら明るい にこやかな、愛想の良い顔を載っけた感じの
アジア人男性が 一人いた。

 

その男性はすごい笑顔でニコニコしながら、
何かよくわからない短い言葉を、繰り返し言っていた。

 

私は、
「おはようございます。大丈夫ですか?
何か問題なんですか?」
とその人に聞いたけれど、反応は特にない。 

 

私の方にもニコニコと愛想の良い笑顔を向け、
同じ短い言葉を言ってくるだけだ。

 

困って警察官を見ると、
「日本語で、もっと他の事を聞いてみてくれ」
と言われたので
「あの、日本ではどちらにお住まいなんですか?」
と重ねて聞いてみた。

 

けれどその人は、
はい、はい、とでも言うように
しきりに頷いて ニコニコしてるだけで、
私の言っていることが通じているようには見えない。

 

「あの・・・お名前を伺ってもよろしいですか?」 と聞いても
「フライトの時間は、まだ大丈夫ですか?」 と聞いても
白い歯を見せた笑顔のまま
しきりに頭を ぺこぺこと下げて、 ッペン だか ッパン
といったような、短い言葉(?)を ただ何度も 繰り返していた。

 

私も 一生懸命集中して その音を聞き取ろうとはしてみたけど 
やっぱり何もわからないので 
匙を投げて
「失礼・・・・でも私は、この人は日本人じゃないと思います。
少なくとも 彼がしゃべっている言葉は 日本語には聞こえないし、
この人は私の質問に答えてくれません」 
と警察官たちに言うと、

 

「OK、グラツィエ、シニョーラ」
と言われ、最初の警察官が扉を開けて、元の場所まで送ってくれた。

 

私よりも背の低い、おそらく150cmそこそこの 細身で小柄な男性・・・・
東南アジアの人かも知れないし、中国人かもしれないし
どこか他の国の人かもしれないけど・・・・
とりあえず アジア系ではあったと思う。 
ちなみに肌の色は どちらかというと 白かった。

 

なんだったんだろう、あの人? 
警察官たちも、あのあと結局 どうしたのかな。 

 

彼が繰り返していたあの短い言葉が、警察官たちにはどうやら 
ジャパン、ジャパン、と言ってるように聞こえたらしいけど、
私には よくわからなかった。 

 

あのやたらのニコニコ顔も 今思えば、
焦りまくった状態を 笑顔でなんとか切り抜けようとする 
ニコニコ顔攻撃だったのかも知れないなあ・・・・

 

イタリアに住んでいる間、こんなことは このとき一回きりで、
後で他の在住者の友達たちにも聞いてみたけど、
同じような体験をした人は 誰も居なかった。

 

  

なんだか珍しくも不思議なものを 見学させてもらいました。

 

 

 

 

世界でいちばんかわいい挨拶

 

Ciao!
この、言わずと知れた「チャオ!」というイタリア語・・・・
私は 世界でいちばん可愛い挨拶の言葉 だと思ってる。

 

イタリアでは いったい一日に何回、この言葉を言ったり
耳にしたりすることか。^^

 

知らない人や 目上の人には 
「ボンジョルノ」や 
初めまして、という時には「ピアチェーレ」と言うけれど

 

だいたい同世代の若い人だったり
お店などで 少し目上の店員さんに対しては
「チャオ、ボンジョルノ」 って言ったりもする。

 

元気に「チャオ!」と 弾けるように 短く言う時もあれば、
「チャオ~♡♡」 と
手をふりふりしながらのように 語尾を伸ばして言う時もあるけど

 

いずれの言い方でも この チャオ という言葉、
言うと自然と笑顔になる 不思議な言葉なんだよね。
最初の「チ」の音が もう既に (笑)

 

そりゃイタリア人も人間ですから 元気のない日もあるわけで、
そういうときの言い方は
「チャーオー・・・」
という テンションダダ下がりなものになるわけですが。

 

たとえ知らない人からでも
笑顔で 「チャオ!」 
といわれると
無条件に 何やら嬉しい気持ちになって、
思わずこちらも笑顔で
「チャオ!」 と返してしまう言葉でもあるんです。

 

何でだろ、響きなのかな、やっぱり。

 

この可愛い挨拶、日本でも流行ればいいのにな♪ と思ってるし
実際のとこ 
女子高生あたりに なんとなく 流行りそうな感じはあるのに
意外と流行らないね。
(長友選手あたりに言ってもらう? 「アモーレ」に続けて 笑)

 

ときどき自分では リアルで 友達に対して言ってたりするけど、
イタリアに住んでいたことを既に伝えてある人たちだからか
特にドン引かれることもなく (ホントか?)
むしろあちらも 「チャオ」と返してくれたりする (*^-^*)

 

でもやっぱり そういう事情を知らない人が聞いたら
私は 頭のおかしい人扱いされるんだろうな・・・・・
ノリの良い人だったら 合わせてくれるかも知れないけど。

 

 事情を知らない人といっても、友達の友達などに
初めて紹介される時とか・・・・・に、
ポロッと 多少の照れ隠し的に言っちゃいそうなだけ だけどね。
町なかの人にいきなりチャオは、いくら私でも言えません ^^;

 

イタリア人の間で 知らない人同士で、
でも あまりかしこまらず 
少し砕けた(=親しみを込めた)挨拶をする時には 
彼ら(私が住んでいたトスカーナ州の人)は
「Salve サルヴェ!」 という言葉を よく使う。 

 

「チャオ」 と違うのは、
「サルヴェ」は会った時だけで、
じゃあまたね と別れるときには、使われないこと。
(「チャオ」は顔を合わせた時&別れる時、両方使います)

 

あとね、これは主にメールでだけで
その人のお父さんが イタリアの高校の
国語の教科書にも使われる本を書いたジャーナリストだった、
という裏事情が 関係あるのかないのかは
わからないけど

 

携帯メールで 冒頭によく
「Ave Luri! アヴェ るり!」 って書いて来たイタリア人の友達がいた。 

 

アヴェ・マリア とかの 「アヴェ」 

 

その人の解説によると、
「喜びを伴った挨拶の言葉」なんだそうです。
チャオ の古語みたいなもんかな?(ラテン語だと思うけど)

 

その人以外のイタリア人の友達で 
Ave なんて書いて来る人はいなかったから
この人が ちょっと特殊だったとは思う。

 

顔を合わせた時に ふざけて 
お互いにこの挨拶をして ハグをし合い
「私たち、トーガを着なくちゃいけない気分にならない?」
って言ったら 笑ってたけど。 
(Toga=古代ローマ時代の衣装)

 

「こんにちは」という日本語も
響きがきれいで とっても好きなんだけど
(なにか 晴れやかな響きがあるよね)

 

やっぱり かわいいって思うのは 
「チャオ」の方だなー♡

 


みんな、「CIAO!」使いません?

 

 

 

わさび愛

 

イタリア人はけっこう わさび好き。
いちど味を覚えると、次からは彼ら同士で、
<わさび争奪戦>を繰り広げている。

 

フィレンツェは内陸の町なので
魚介類は値段が高い。

 

それでもときどき、イタリア人&日本人の有志メンバーたちで
「お寿司を食べよう!」パーティ を企画して
街の魚屋さんに、
「来週の何曜日に生で食べられるマグロが欲しいんだけど」
などと予約すれば 新鮮な食材も手に入るので、
禁断症状に苦しむことはなかった。

 

2011年くらいからは スーパーマーケットで
パック入りの寿司(6~10ピースくらい入ってるやつ)も
売られ始めるくらい、認知度と人気は上がってきてたしね。

 

お寿司なんて 日本では、
いわゆる ご家庭の手巻き寿司か、
パックを開けてご飯と混ぜるだけの ちらし寿司以外
自分で作ったことなんてなかったけど、

 

留学生仲間のお料理上手な人から習って、
(なんたってシェフ修行で来てる人たちもいる)
スモークサーモンで手毬寿司 とか、
ちゃんと巻き簾と海苔を持ってきてるエライ人もいたので 
巻き方を教えてもらったりして
私も多少 それっぽいモノを作れるようになった。

 

今から留学に行く人たちは、
お寿司を作れるようになってから出発すると
間違いなく 「身を助ける芸」 になること請け合いですよ、
真面目な話。

 

この技術持ってたら、バイトだってすぐに見つかるんじゃないかな。
あなたがちゃんと「日本人」だってとこが先ず、高価値だしね。

 

私がフィレンツェに住んでいた頃 
とくに 2005年ぐらいからは
イタリアでは SUSHIはオシャレで スタイリッシュなイメージで
よく 「〇曜日は寿司アペリ(ティーボ)」 とかやってる
モダンなロカーレ(Locale 夕方や夜からお酒の飲める店)がそこそこあり、
日本人留学生のアルバイトたちが 
そういうお店の厨房で 頑張ってくれてたりした。

 

でも 2000年代初めくらいでは
値段の高めな フィレンツェの和食店の走りのひとつ(イタリア人経営)では
寿司は 日本に滞在経験のある たしか中東系の人が握ってて
それ以外の和食は、でも 日本人シェフが作ってたんだったかな?

 

中国人がやってる寿司バーにだって、お客さんわりと入ってたくらいだけど
中国人の安い店も イタリア人経営の高い店も
食べてみると そういう店のお寿司は共通して
シャリがひどかった★ (注*データは古いです) 

 

別にそんなお店に食べに行ったり アルバイトをしなくても、
基礎的な作り方を知っていれば
寿司が恋しくなった時には 自作できるし 
友達たちと一緒に作って食べるのも、楽しいもんだ。

 

とにかく 
美味しそうな食事会の話に 人が集まってくるのは
世界中どこであっても自然な現象で(超~ナチュラル☆)

 

参加するからには
あまり守りに入らず、未知の味にも果敢に挑戦する
というのが、私が見たイタリア人たちの姿勢。
(最初に口に入れるまでの表情が見ものだった人もいたケド 笑)

 

料理を作ってくれた人へのリスペクトや 感謝という気持ちも、
日本人と同じように 彼らも持ってるしね。

 

南イタリアの老齢の人たちの中には
お寿司がムリな人もいたけど
フィレンツェではとりあえず、20代~60代くらいの友人たちは皆
喜んで食べてくれてた。

 

ちなみに
「日本人はみんな寿司が作れるの?」 と
目を輝かせて聞いてくる人たち(イタリア人だけじゃなかったので)は
たいてい頭のなかで 江戸前を思い描いてるから

 

私は
「私のマンマや ノンナ(Nonna おばあちゃん)も作ってたけど
寿司って、一種類だけじゃなくて いくつか種類があるんだよ。
たとえばピッツァも、
ピッツェリーアでピッツァイウォーロ(Pizzaiuolo ピザ職人)が作るピッツァと、
家でマンマが作るピッツァは、美味しさが違うでしょ?
だから 私が作れる寿司は 家族用のものなんだ。」

 

と説明してあげると、
「あ~ なるほどね~」 と 納得してくれて
あちらの 高まる期待値と
こちらの 重くなるプレッシャーを セーブできた(笑)

 

日本食に興味があったり、
既にもうどこかで わさび入りのものを食べたことがあって、
味に慣れているイタリア人たちは 

 

「ワサビは? ワサビはどこっ?!」
「オレも欲しい。次まわして!」
と 忙しく手渡し合ったり

 

わさびを知らない 未体験の人にまで

 

「オマエまだ食べたことないの?
美味しいぜ、こうやってサルサディソイア
(salsa di soia 大豆のソース=醤油のこと)に溶かしてだな・・・」
と彼ら同士で伝授したりしてて、
チューブの奪い合いで、すぐになくなってしまう。

 

提供しているこちら側としては
キミたちっ! それ、次に日本に里帰りするまで、手に入らないんだぞっ!!
と心の中で叫んでたりする・・・・・

 

なので日本へ戻ったときは、必ず数本 持って帰ってくるようにしてた。
こちらでも中国人のやってるアジア食材の店で粉わさびを売ってはいるけど、
私は買ったことはない。
普通に美味しいんだろうか・・・(そもそも日本のものなのだろーか?)

 

そういえば、いちどワサビの手持ちがなくて、
「オレ持ってるよ」という日本人の友達に頼んだら、
粉ワサビで ボウルにたくさん作ってくれたまでは良かったんだけど

 

イタリア人の友達(男)の一人が、
それをアボカドディップと勘違いして <大量に> 口に放り込み、
ジュラシックワールド(?)ばりに 口から火を噴いて
たいへんだったことがあった・・・・・そうだ。
(後から 「大変だったんだよー、可哀想だった。」 と聞いた。)

 

私は台所でずっと料理してたので、
そんな騒ぎがあったことなど、つゆ知らずだったの。

 

それを聞いて心配になったので、大丈夫かなと様子を見に行ったら、
水・ジュース・ワイン・その他を
「皆ですぐに 寄ってたかって飲ませてくれたから大丈夫だったよ」
と、わりとすぐに回復して、
また楽しくパーティに参加してくれてたから良かったけど。

 

んー、でもちょっと火を噴いてるところ見てみたかったな♪
めったに見られるものじゃないよね♡ (←鬼★)

 

驚いたのは、こちらが特に何も説明していないのに、
「これはインテッリジェンテだ(intelligente 「頭良い」)。
生魚に居るかも知れないバッテーリ(batteri 「バクテリア」の複数形)
を殺す役割もしているに違いない」と、
わさびを使用する効能に 自ら気づき、
納得しながら食べているイタリア人もいたこと。 
(わざわざ私のとこにそう言いに来たので、
「その通りです。ブラーヴォ!」と拍手を送りました。)

 

お約束の、少し鼻にツンと来て わたわたと暴れまわる人を 
みんなで微笑ましく 温かい目で見守るのも、
その場の連帯感と和みが生まれるステキな時間だし

 

私はそれを「わさびの洗礼」と呼んで、
それが その日初めて寿司を食べたというイタリア人だったら、
「おめでとう。これで仲間になれたね♪」 と笑顔でお祝いを言っていた。

 

涙目で嬉しそうな笑顔を返してくれるのが
印象的だったというか、痛々しかったというか。

 

あと 友達の話だけど、
日本のお土産で 柚子胡椒をイタリア人にプレゼントしたら、
「なにこれ、美味しい!」と、どハマリされて、
異常に喜んでもらえたのは良かったんだけど、
その後、
次は日本にいつ帰るの? また柚子胡椒買ってきてくれる?
と事あるごとに要求されるようになってしまい、
「余計なものを教えてしまった・・・」
と軽く後悔した という話も聞いた。

 

 


意外とイタリア人も、辛いモノ好き多いみたいよ。

 

 

 

 

関連記事: 

luriha.hatenablog.jp

 

 

 

 5/16/2017追記:
「私の友達はわさび大嫌いな子が多かったので意外です」
というコメントを下さった方がいらしたのですが、
たしかに 
よく思い出してみれば、私の周りのイタリア人達は
あまり一般的ではなかったかも・・・・

 

食べ物にこだわりがあって、 
普通のスーパーやメルカートよりも
わざわざBiologico(ビオロージコ 無農薬・有機農法・オーガニック系等の意味)
の店に買い物に行ってたり、
日本のだけじゃなく、他の国のエスニック食材(アジアやアフリカなど)にも
興味を持ってる人が多かったです。

 

ご参考までに^^

 

 

 

 

実験継続中

 

このブログの主旨ではないので
今後はこういった内容は書かないと思いますが
前回の記事が 100記事めだったみたいなので
ちょっと 自分のブログを振り返ってみますね。

 

3月に 始めて1年が経過したことは書きましたが
このブログ、実は「実験」を楽しみながら 
その経過観察中だったりもするんです♪

 

自分のやりたいスタイルで 好きなように書いてみて
それがどの程度 どんなふうに 受け入れられたリ 
受け入れられなかったりするのか?

 

やりたいスタイルとは

 

Webライティングの王道セオリーに反して
先ず
アイキャッチングのための画像なし。
TwitterFacebookなど、他SNSとの連動ナシ。
リアルの友人知人への告知もしていないから、
友情や温情(?)によるアクセスや拡散もナシ。
(ごく最近、仲の良い友達2~3人に教えたけど
「他の人には言わないでね」と頼みました・・・ハズカシイので)

 

文章のみで しかもやたら長いくせに
(お忙しい皆さんのお時間、有難うございますm(_ _)m)
段落分けも、まとめもなく、
「誰でも読める平易な文」も心がけず、
漢字も普通量、文章のなかに入る。

 

はてなさんはSEOに強い、というウワサはあるけど
それ以外 ほぼコンテンツ(内容とスタイル)のちからだけで、
いったいどれだけ読んでもらえるものなのか??

 

さあどんな感じなんでしょうねっ? と 
自分ではこの実験、
けっこう楽しんで始めてみました^^

 

いま現在の結果としてはですねー
PVはやっとこさ 1万に届くとこですね。
1年以上やってて。(^_^;)>

 

ちなみに はてなさんのトップページで紹介されたことはないです、
たぶん一度も。
はてな関連からのアクセスはいつも 1%とか、2%だし
トータルが、maxでも5%を超えたことないから
ないと思ってるんだけど・・・・違うかな?
(あと、いつも約10%が解析データ「外」なんだけど、
残りの10%って何なんだろう?)

 

お、新しい現象だな、 と最近思ったのは
年末ぐらいからちょっと忙しくなって 
1~2週間に1回とか、
月に4本程度しか 新しい記事をUPしていないのに
毎月平均1200程度、安定的にPVがあること。

 

これがなぜなのか よくわからず
好奇心で
よし。新しい記事をどれぐらい「書かなかったら」、
一日のPVが1ケタとか、顕著に下がって来るんだろう? と
「実験実験♪」と ウキウキしながら経過観察してみたりしたけど
過去記事に検索からアクセスしてくれる人が多いウチの場合は
意味がないことに 後から気づきました★

 

ときどき ハマッて読みふけってくれる人もいるみたいで、
局地的に 棒グラフが ぐいーんと育ってたりすると 
あらあら、と お茶を淹れてさし上げたくなる(笑)

 

私の文章とか 話す内容って、
なんか硬いというか、小難しい・・・のかな? 
昔から友達に
「るりちゃんの言ってることって、難しくてよくわかんない」 とか、
「手紙に漢字が多い」 とか 
文句(?)を言われたことが何回か 
実はあります^-^;

 

本人はことさら 難しいコト言ってやろうとか、
漢字をたくさん使ってやろうなんて、まったく思ってないんだけど
そういう印象を与えるみたい。(ごめんよぅ ;_;)

 

ネットに挙げる文章は
なるべく平易にわかりやすく、
センテンスも短めにして 
「私」など、簡単な文字も敢えてひらがなで書き、
漢字の多用を避ける。
長めの文章は数段落に分けて それぞれに小見出しをつけ、
さいごに「まとめ」で要約、
冒頭に目次もつけてあげると親切・・・・・ と、

 

「多くの人に読まれるためには そういう書き方が良いんだよ」
ということは 知識として 仕入れはしたのだけど

 

私は

 

「もし目にする文章が、そんな<親切>なものばかりになったら、
ますます現代日本人の読解力は、落ちていくじゃない。
ひいては、
知能のレベルや 母国語である日本語力が 落ちていくじゃない。
長文どころか、ほんの数行の文章でさえ、
ちゃんと意味がとれない人が増えているみたいなのに・・・・」

 

と思ってしまって、

 

「そんな書き方、私はしたくない」と 
逆に決心してしまった。 (笑)

 

ブログ始める前は
ひたすらROM専門(←死語?)だったネット上に
自ら姿を現す という、
未知で不慣れの領域で、なにか望まない状態に直面するのは
面倒くさくてヤダな と 
見えない何かに対しての、説明しがたい警戒心もあったけど

 

どうやら へたに
不特定多数 and/or  理解力において玉石混交 
の耳目にさらされたり 
注目されたりしていないぶん、
ヘンな人にからまれたり ヘンなコメントも来ないし

 

なまじ誰にも読みやすいわけじゃないからこそ
こんなのを面白がって読みに来る、
「私にとってもご縁を持ちたい人たち」 だけが
自然に集まってくれてるのかも?

 

てワケで 今のところは全く悩みもなく 快適で
さいきんやっと 自分から
ぷらぷらと他ブログさんにもお邪魔して 
コメント欄で楽しく交流させてもらったりも できるようになった^^

 

そうだ、
ひとつお詫びをお伝えしたいことがあります。

 

私 このブログは ノートPCで、
キーボードをテケテケ打って書いていて
このまえ 初めて
はてなさんのデザインのページで
自分のブログのスマートフォンでの表示を見てみたら

 

めっちゃ読みづらくて
あちゃあ・・・お気の毒なコトしてたんだな、わたし・・・・
と思ったの。

 

レトロ好きな私は、未だに元気なガラケー使用者でして、
そもそも携帯電話ではネットを見る習慣もなくて
ぜんぜん気づいてなかったんです。
気に入っている腕時計も自動巻きだし
カッフェはマキネッタで作るのが好きなアナログ人間という・・・

 

スマフォの人、読みづらいブログで
ごめんなさいっ! m(_ _)m
でも
あんな表示にも関わらず、たぶん頑張って読んでくれてる人も
きっといるんだろうな と思うと
ありがたいです・・・・♡

 

文章が長いぶん、
言葉群で こまめに分けて 
こんな感じに↑スペースを開けるのが
自分なりの 読者さんへの
「見やすい表示サービス」のつもりでいたのだけど
・・・・・逆にやらないほうがいいのかな??

 

他の人たちの 丁寧に構成されたブログを見たりすると
私も本来は もっとたくさんの人に読んでもらえるように
努力するべきなのかもな・・・・
なんて、反省させられたりもするんだけど

 

あえて ここもアナログ的に
口コミとか 自然に裾野が広がるように増えていくなら 
自分としてはそのほうが望ましいって気持ちが
心の底に 実はあるのね。

 

自らいろいろ工夫してアクセス数を獲得する、という手段ではなくて、
より 偶然の出会いのちからを 経験してみたい、というか・・・・

 

書いて発表することだけで けっこう満足な気持ちになってるし
読まれなかったところで 誰かに迷惑かけるわけじゃなし

 

むしろ 飽くまで 
気に入って くりかえし読みに来てくれてたり 
見つけてくれる(た)人にだけ向けて書いて
ここに辿り着けてない人たちには
「いや~勿体ないね、良いブログなのにね♪」 
(自分で言いますよ~ そう思って書いてるし、そうしたいと思ってるもの)
と 心でエールを贈るだけかな。
縁があったらいつか会いましょう ってなもんで。

 

ちなみに


自分としては意外な、よく読まれている記事は
luriha.hatenablog.jp

 

luriha.hatenablog.jp

  

 

多く読まれていて、自分でも嬉しい記事は

luriha.hatenablog.jp

 

 

地味に人気記事らしいのが 

luriha.hatenablog.jp

 

luriha.hatenablog.jp

 

 

へぇ~・・・って思ったりする。(笑)

 

こんな感じで 今後もマイペースでやっていきますが
気に入って読んで下さってる方 どうもありがとう♡ 
どうぞこれからも おつきあいくださいね♪

 

 

 

 

 

意思表示を怖れないこと

 

たぶん
「感じが良くていい人」と みんなから思われたいのは、誰でも同じ。
誰かと 何かで 言い争ったりとか
自分から人に嫌われにいく人なんて、まずいない。

 

それでもさ

 

判断力のない子供時代ならいざ知らず
とっくに成人している大人の立場で

 

いつでも 何でも、 何に対しても
「全く」自分の意見を持たなかったり、あるいは言わなかったり

 

意思表示をなにもせず

 

「私は双方どっちにも味方します」
あるいは 
「どっちの味方でもありません」
な態度をとり続ける人たちって
自分で どう思って そうしてるんだろう。

 

本当に いつでもその態度でいることが良いのだろうか とか
自分がこれについて意思表示をしないのは 
こういう理由があるからだ とか

 

じっさいそれをしている人たちは、
ちゃんとそれについて考えたり 状況分析をやったうえで そうしてるのかな。

 

私見だけど
私は してないと思うんだよね。

 

そういう人たちの多くは
自分の頭で ものを考えることをしなくって
いつも どこからか聞いた話か
自分の思考を通ってない 「だれか」 別の人の意見を 
そのまま信じてるような人たちなんじゃないかと思う。
(違っていれば、良いんだけど・・・・)
だから単に判断力がなくて、意見を言えない。

 

もちろん
世の中の全ての物事に対して 
いつも明確に自分の見解があるわけもなく
たいていは 
両方の言い分も聞いてみないとわからない とか
いま見えてる事だけがその問題の全てなのか、
まだ判らないから判断できない とか
個別の さまざまなケースがあるけれど

 

それでも 
一人の大人として 態度を明確にすべきことだって 
普段から 日常に たくさんあると思うよ。

 

たとえば

 

差別はイケナイとか、判で押したように みな言うけれど
しちゃいけないのは 「謂れのない差別」 だけだよ。

 

「差別」という言葉は、
なにか理由があって、他とは区別して扱う人や、状況があった時に
「区別された側」が使う言葉で
区別する側にとっては、単に「区別」と呼ぶ行為のことなんだと思う。
(もちろん いろんなケースがあるけれど。)

 

「理由のある差別」は、
なぜそれが必要なのかを きちんと説明できるものならば 
むしろ 見分け方の能力を高めるためにも 大人から先ず
日常生活のなかで 冷静に 公正に考えた上で 
やってみせるべきものなのかもしれない。

 

「判断して区別する」ってことを 自分自身で学ばせたり 教えたりしないと、
これから大人になっていく子供たちだって 
善悪すら しっかり学べない。

 

いじめっ子は、いじめなんかしない子と 明確に区別して、
特別に指導したり
罰を与えたりするべきだし 
それを「いじめっ子が差別されるから可哀想」なんて言うのは違うでしょう。

 

その子にいじめられて苦しんでる子がいるのに。
悲しくて、絶望して、自殺までしてしまう子がいるのに。

 

「おまえはいじめたんだから、その代償を受けなさい」という筋を通し
大人全員が はっきりと意思表示をしないと
子供たちは いじめが悪いことだと学べない。

 

「なんで」それをしたかっていう理由を問うのは、次の段階だ。
情状酌量はそこですれば良い、その子の話をちゃんと聞いてあげて。
必要なら 心のケアもしてあげて。

 

でも

 

「いじめた事実」に対しては いっさい容赦せず 
それが問答無用で悪いことだと認めさせ、
先ずはそれを 厳しく叱らないといけないと思う。

 

どんな事情があろうが、自分の身勝手な都合で
他人に対し やってはいけないことがあるんだって。

 

それで他の子に 
「君はいじめっ子だから一緒に遊びたくない」と言われるようになっても
それは理由のある差別であって、不当な差別なんかじゃない。
単に自分自身がしたことの代償。

 

いじめたことを反省して、
いじめた子に謝ったり、仲直りして、
二度ともういじめをしなくなっても
しばらくの間「あいつはいじめっ子だ」と言われ続けることは仕方ないだろう。
たとえば1年 いじめ続けていたなら 
やっぱり名誉回復には1年くらい かかるんじゃないかな。

 

その代償をちゃんと受けた後に、たとえば
何年たっても いつまで経っても 「いじめっ子だった」事実は消えないにしろ
それを糾弾し続けることは 
また別に 考察しなければならない事だとは思うけど。
(それは実際にいじめ被害を受けた人の、心の傷の深さにもよると思う)

 

大人たちが気を付けなければいけないことは
その「理由のある差別」を きちんとコントロールして
子供たちだけに 状況を任せないこと。

 

子供たちだって 大人といっしょで
特に集団になると、権力を笠に着て、暴走することがある。

 

元いじめっ子が「きちんと反省しているのであれば」 
大人たちはその子も 一人の子供として 守ってあげる必要がある。
近い将来 今度はその子が
「被害者」の立場になってしまわないように。 


「〇〇君は、ちゃんと反省してるんだから、もう赦してあげなさい。
実際にもう、いじめなんかしていないのを見てるでしょう?
だから仲良くして 一緒に遊んであげなさい」って。

 

大人の責任って、子供に対しては
小さくもないし、簡単でもなく、
実際のところ 非常に骨の折れるものなんだと思うけど
学校でも 家庭でも 
たぶん社会でも
大人たちは じぶんの忙しさにかまけたり
じぶんの保身や 怠惰を優先させて
次世代を教え諭すことについてや
現代社会をより良い方向へ導いていくことについては
すごく手を抜いてるんじゃないかと思う。

 

最近の風潮では 親が子供に  
「いじめっ子を止めるといじめられるから、黙ってなさい」って教えるって
ほんとなのかな。
見て見ぬふりをしろって 言い聞かせてるってことでしょ? 
たとえ自分の目の前でひどいことが起こっていても 止めなくて良い 
って教えてるってことでしょ?

 

恐ろしいよ。 

 

私は 小学校の先生だったおばあちゃんから
「いじめられてる子がいたら、かばってあげなさい」 
と教わっていたから

 

うちの小学校では せいぜい少人数の意地悪グループが 
悪口を、本人に聞こえるように言うって程度のいじめしかなかったけど
(たぶんまだ平和な世代で その後 私が通った中学高校では
たまたま いじめもなかった)

 

それでも 
そうやって悪口を言われてる子が 
下向いたまま泣いてたり、
ちいさく縮こまったりしてるところに居合わせたら

 

その子の隣に立って、 
そこから意地悪グループの子たちに向かって
「〇〇ちゃんは、 ~じゃないよ!」 
「いじめる子って、かっこわるい」
くらいは言うようにしてた。
おばあちゃんからの言いつけを 私なりに守るために。

 

そういうところで 勇気(?)を培っていたからか
自分が言葉で攻撃されたりした時も 
「ちがうもん」とか 
ちゃんと意思表示して 言い返してた。

 

1 対 大集団 でされない時代だったから 出来たんだとは思う。
あの頃 私の学校では先生達もまだ ちゃんと介入してくれる人たちだったし 
クラスメイトの中にも 
「そうだよ、るりはちゃんの言う通りだよ」って言って、
味方になってくれる子たちもいた。

 

(いじめに関しては もう一つ気になってる事がある。
親たちは「うちの子が いじめられたらどうしよう」とは思うのに
「うちの子が いじめたらどうしよう」とは考えないから
「誰かにこういうことをしちゃダメだよ」という教育が
先ずされていない、という話。
この記事の主旨とは違うけど、ついでなので一言。)

 

「意思表示」っていうのは とても大切なことなんだと思う。

 

なにか解決するべき事態が起きたとき
意思表示を 
その場にいる全員が全くしないで 黙ったままだと 
力の強い人間の 独壇場になるだけなのに

 

なにもオリジナリティあふれる意見を言う必要はなく
はっきりとした自分の意見がないなら
せめて 良識的な声をあげる人がいた時に
すかさず 「そうだ」 と賛同する意思表示をして
それが「大多数」になれば
ただその場での力が強いだけの人が 幅を利かすことにはならないのに。

 

「そうだ」と はっきりとした言葉で賛同すらせずに 
その判断への関わりを避けようと 
あいまいに 黙ったままの人が あまりにも多いから

 

せっかく勇気を出して声をあげた人が
孤立したり 少数派になってしまい 
声がかき消されてしまう。

 

自分の身を守りたいのは解るけど
それを多くの人たちがずっと続けてきたから 今の日本は
子供の社会も 大人の社会でも
良識的な人間がマジョリティになれず

 

実際のところ どこかおかしいことが 世の中ではまかり通っていて
加害者や 非常識な人たちが より強く 
被害者や 常識のある人たちが より弱いままの この現実のなかで

 

人によって置かれている状況は違うから 
そこは個々人で出来る範囲もあるだろうけど

 

社会の問題について 人間関係の問題について
保身のために それでも今まで通り
このままずっと 沈黙を続けるべきなのか
いま
もういちどよく 考えて欲しいと思う。

 

私は 意思表示をせずにずっと黙っていることが 
「大人の対応」で
それがいつでも「良識的な良いこと」だなんて、 
違うと思う。

 

少なくとも じぶんは知恵も常識も持っていると自覚してるなら 
逆に
「何も意思表示をしないのは恥だ」くらいに 思ったほうがいい。

 

自分の判断力に自信がなくて出来ないなら
「いまの自分」としてどう思うか でじゅうぶんだし
(人間は日々勉強・日々成長だから)
まだまだ未熟だと思うなら
自分で努力して、それを磨くべきだし。

 


<義を見てせざるは勇無きなり> 
ギヲミテセザルハ ユウナキナリ

 


せめてこの古い日本語を
もう一度 日本人の 心のなかで生き返らせないと
失われていくべきでないものを 守り切れなくなってくる。
なにか大切なものを 永久に失ってしまいそうな
そういう危機感を感じてる。

 

潜在的マジョリティの人たちは 「まともな」人たちなのに
その人たちが 黙ったままで
声を挙げて意思表示をしないから 
ただ大きい音を鳴らすだけのマイノリティに
<日本の世相>を乗っ取られてる。

 

自分には何も責任がない なんて思っちゃいけない。
黙っていないで 意思表示をしていこう。

 

これは心理戦でもある。

 

非常識な人たちに 非常識なことを続けさせず
「あれ、自分は間違ってる?」 「自分は 非常識だと思われてる?」 
「自分に味方してくれる人が・・・いない?」 と
自ら考えさせ、その声をトーンダウンさせるための。

 

彼等にとって居心地の良い、「やりやすい」環境を 与えないための。

 

たった一人で 頭のおかしい人に立ち向かえって言ってるわけじゃない。
状況判断は いつだって最優先事項だし
「保身」という言葉は同じでも、その動機と状況にはバリエーションがある。

 

ただ
<本当のマジョリティ>としての立場を きちんと取り戻そう、
そのためには 一人ひとりが 八方美人を決め込まないで
保身ばかりに走らないで
沈黙を破って 
意思表示をする必要があるんだ と 私は思うから、
それを書いてる。

 

「そうだよ・・・その人の言う通りだと思うよ」
あなたの心がそう感じたときに、心の中だけでなく、
ちょっとだけ勇気をだして 
声に出して 言うようにすればいいだけ。
はっきりと 味方してあげればいいだけ。

 

私のおばあちゃんが教えてくれたように
子供たちには 
黙っていなさい ではなく、
「いじめられてる子がいたら、かばってあげなさい」 
と教えればいいだけ。

 

教師や校長ですら 保身のために口をつぐんでいる現実のなかで
子供たちの心や 身体を守るためには 
子供達同士で直接 お互いを守り、かばい合うようにさせるしかないんじゃない?

 

会社や 社会のなかで
良識的、道徳的な意見や 規律の軸が
変な方向に行ってしまわないよう 
皆がそれぞれ 
自分の意思表示をすることで 気を付けるようにしていったら
今の社会の現状は どう変化していくだろう。

 

沈黙した水面に かすかな揺らぎさえ起らなかったら
その水は静かにただ よどみ続けていくだけだけど

 

ひとつひとつは たとえ小さな声(発信)でも
その小さな音が重なり合って 大きく響き渡っていったり

 

誰かの勇気ある 小さなひとことが 
本来の<マジョリティ>の 最初の同心円を 
きっと生んでいくよ。

 

和をもって貴しとなす文化を、 
社会を、 
これ以上 いびつに歪ませたり 
小さくさせて やがては 消えさせてしまわないように。

 

風のなかで 一人ひとりの手のひらが集まって 
しっかりと風を防ぐ 厚い壁になり
今にも消えそうになっている 小さな火を 
決して失ったりしないように。

 

自分でどう感じていようと
あなたの声は
取るに足らない 価値のないものなんかじゃない。

 

大人であるあなたの喉から発せられる 小さな声のひとつひとつが 
世論や社会常識を かたちづくっていく。

 


どうか明確に

「意思表示」を。

 

 

 

 

 

 

イタリア男性の理想の女性像

 

 

恋愛関係はないイタリア人の男友達と話してるとき、
ところで君って何歳なの? と聞かれたので
それ聞きますか? と軽く抗議しながらも、
普通に答えた。

 

するとその友達は
あー答えさせちゃって悪いことしたな、 と思ったんじゃないかな(笑)
たぶんフォローするつもりで、

 

「君は、20代の肌と、30代の知性を持っている。
男にとっては理想の女性だよ。」 と言った。

 

それを聞いて 私が
イタリア人男性の理想は、知性を持つ女性なの?
日本と違うね。
日本人男性は一般的に
女性に求めるのは 若さという幼さで
内面の成熟や知性は 重要視されない。
ときどき日本人女性が、たとえ妙齢であっても
どこか見た目や物腰に幼さが見えるのは、
そんな社会風潮に 無意識に迎合してるからかも知れない
と話すと、

 

本当に?信じられないな。
言っておくけど、これは俺だけじゃなくて「イタリアでは」ってことだけど、
普通の男なら、幼い子供に興味はないよ。 
魅力を感じるのは バンビーナBambina(女児)じゃなくて、
知性ある ドンナDonna(女性)のはずだ  と言った。

 

子供といったい、どんな会話が出来るっていうんだ? って。

 

それは彼ら(日本人男性)に聞いてみないと。 
そういって笑って、
でもイタリアでは 成熟はむしろ、
男性の方が したがってないように見えるけど?
と からかったら、
だから尚更、僕たちは女性には成熟を求めるのさ と返された。

 

それもどうなんだろ・・・・?
 

女性のほうだって 子供みたいな男性に興味はないわ、
母親役をさせたいの?

 

特に自分の恋人なら、 比喩的に言えば 
やっぱり「イヤな匂い」は して欲しくない。
青臭い匂いも、
古びた カビ臭い匂いも。

 

「成熟」は、人や 社会との関わりのなかで いろいろと 
恥をかいたり 
反省したり
感謝したり 
考えたり

 

たくさんの 恰好悪くて 泥臭い経験を積み重ねることで
少しずつ なされていくものだと思うから

 

今後ますます 生身の人間よりも
「画面」に向き合うことが多くなるだろう生活形態では、
人の精神の成熟は 置いていかれる可能性がある。

 

これは日本だけでなく
世界全体の問題としても 考えないといけないと思うけど
少なくとも現状、
大人としての成熟を目指し
成熟した人間のほうに より高い価値を置く 
イタリア社会のようなところならまだ
失われていくのは先の話だろう。

 

危ないのは 日本みたいな文化の社会だ。

 

イタリアに住んでたころ 何回も
「日本はひどい男尊女卑社会なんでしょう?」
と聞かれたけど、そのたびに
「そんなことない」 と答えていた。 

 

時代錯誤と言われた気がして気分が悪かったし、
イタリアだって ずいぶんな男尊女卑社会らしい話も、
身近な女友達(イタリア人の)たちから聞いていたし。

 

でも 改めて思い返すと、そう思われるのも道理だと思った。

 

日本社会が求める女性の役割はいまだに、
身の回りの世話役であり、慰安役であり・・・
イタリアでも 若い夫婦なら共働きはあたりまえだけど
家事や子育てに関して 日本ほど女性任せにはなっていないし
女性任せで良いという社会風潮も皆無で
男性も ちゃんと父親、夫としての自覚がある人が多い。

 

飽くまで私の印象なんだけど
日本の社会って
昔からこうなのだから と 現状に疑問を呈することすら
圧殺するような雰囲気があり
異論を口にする者は まず間違いなく攻撃され
意見や 動きを 嘲笑や黙殺など、
不当な手段で封じられる。

 

「愚かな大衆」という言葉があるけど、
自分で物事を判断して答えを導き出せない=愚かな 人間たちが
社会のあらゆる部分を構成し、
自分の頭で考えて行動する人たちが マジョリティになれない、

 

多様性のない、

 

既に「決められた」価値観しか認められず
(それが真に合理的なものであるなら、何も問題はないのだけど)
何か歪んだ、間違ったものに統制されているかのような、
不自然な社会文化をもっている部分が あると思う。

 

どこか子供っぽいものが 社会全体の<主流>を占めているし
(いちいち マンガだとか噛み砕いた表現で説明してやらないと
ものごとの内容を理解できない人間が大勢いるとか)
それがもはや普通で、
「ひょっとして、おかしいんじゃないか?」 とすら
もう誰も思ってないだろうから、うすら寒くなる。 

 

子供の無邪気な幼さは、それが自然だからこそ愛らしい。
年齢と、人間としての成熟度の、つりあいのとれているものだけが
「自然な美」を生む。

 

人は自然に生を営めば、
毎日何かを学び、ろうたけて行くのが本来の姿だし、
精神の成熟からくる 物腰の優雅さや 美しさ
そういう人たちが作り出すであろう 落ち着いた社会文化を
もっと評価したり 求めたりする風潮に
いいかげん 日本もなればいいのにな と思ってる。 

 

日常目にする、目立つところにある文化(たとえばTV)の中では
大人の男女とも 
不必要な大声で 会話でも 対話でもない 
ただの騒音みたいな 下品な話し方をしていたり、

 

エンタテイメントといえば わらわらと集団でやる 
幼稚園児のお遊戯みたいなものばかりで、
それを喜んで観てる大人も大勢いるらしい事実。

 

そういう芸能があること自体は別に良い。

 

似たようなもの「しか」ない っていう、
<画一的な状態> なのが問題であって、
他の、もっと様々な、いろんな価値観に基づいた
文化のバリエーションが、
社会のなかで 「同程度に評価されていないこと」 が、
日本の歪んだ部分だと思ってる。
 

これが売れたー
二匹目のドジョウを狙えー、
以下ループ
お金はそこでしか回らず、
いま一番稼げるものだけが正義で、
それ以外のものに価値があるとは認めない みたいな。 

 

経済活動、投資の問題としてみれば、
今現在流行っていて リターンが確実に見込めるものに投資するのは
理解できるけど

 

文化の層とか将来性とか 質の問題から見たら、
こんなこといつまでも続けてちゃダメでしょ・・・・

 

話がズレましたが

 

とりあえずイタリア人男性は日本とは違って、
女性に幼さは 求めてないみたいです。
むしろ 成熟した知的な人を求めてる。(遊び相手は別ね★)

 

彼らが <セクシーで男性として魅力がある> と
他の多くの国の女性たちからも思われてるのは
結局のところ彼らは 
子供っぽいところがあったとしても
精神年齢はちゃんと 大人の女性と釣り合うくらい、
成熟した内面も 持っているからなんだと思う。

 

話してみればわかる。 
政治でも、芸術でも、世界情勢でも、社会問題でも
彼らはどんな話題でも 
きちんと自分の意見を持っているし、
真面目な話題は 真面目に話すよ。

 

イタリア男は全員マザコンで イタリア人は仕事をしない怠け者 という 
日本のマスコミが今だに流してるステレオタイプの嘘も

 

それは本当だろうか という疑問も持たず、
自分の目でものを見る労を惜しむ人や 
自分の頭を使って考える習慣のない人は
まだまだずっと
そのまま 間違った情報を信じ続けるのだろうけど。

 

日本ではただ 精神年齢の幼い 
自分の内面を成長させる努力もしない 怠け者の男性たちが
「その精神年齢に釣り合う女性」を 求めてるだけなんだよ。
(同程度の精神年齢  or  母親のように甘えさせてくれる女性)

 

そんなのが 社会のさまざまな場所で 
世論を形成する権力の分野ですら 多数派だから

 

全員がそうではない ってことが 救いではあるにせよ

 

日本社会全体が どこか幼稚な印象で
だから 「日本の文化では幼さの残る女性が理想」だとすら 
錯覚させられてるだけなんだよ。

 

女性のみなさん、そんなのに付き合ってあげることないよ。

 

女性って生き物は、どうしても、
他の人から「愛されたい」と願ってしまうように心理設定がされてるから 
やっかいなんだけど・・・・・

 

若い人の美しさと 
ろうたけた人の美しさは別のものだけど

 

若い美しさだけを褒めそやす感性って

 

春の花や 新緑だけが美しくて 
夏の濃い緑や 秋の紅葉 冬の枯葉は 
なんの美しさも 価値もない
と言ってるのと同じで

 

花なら たとえば桜だけを愛でて 
菜の花 藤 かきつばた すみれ すずらん 雪柳 
朝顔 ひまわり コスモス 曼珠沙華 椿 ロウバイ・・・・
それぞれの花の愛らしさや 
美しさの違いを感じることが出来ないような、
貧相な文化レベルの人の言でしかない。

 

そして そんな文化的貧相さは
日本の伝統的な感性からは かけ離れてるのにね。

 

いったいいつから こんな風潮になったんだろう?

 

・・・って 
私は生まれてからずっと その風潮のなかで育ちはしたけど・・・・

 

女性の側の意識の問題としては
自分の年齢を考慮して それ相応に・・・・ 
ということとも ちょっと違うと思ってて

 

とにかく 世間でどう思われるか? を基準にして
自分の 身に着けるもの(服装だけじゃなく)を 揃えようとするより

 

自分の気持ちが 
自然で 居心地良く感じられる 
ファッションや、話し方や、哲学や、物腰をもって 
リラックスして 日々の生活を送るほうが

 

結局のところ実体のない 
目に見えない 「社会」の声や、「誰か」の好みに
無理に自分を合わせて暮らすより ずっと良いんじゃない? 
ってだけの話なんだけど

 

ほぼ 洗脳完了 ってくらいにもう
社会的に良いとされてるもの=わたしの好みもそれです! って
無条件に信じ込むようになってる人多いみたいだしね、この国の人は・・・

 

<みんなと一緒> <みんなと同じ> でなくても良い ってことを 
心の底から信じられるようになれない限り 
この傾向は まだ続くのかもね・・・・

 


と落ち込みかかったので
日本国民、日本社会の子供っぽさに関して
肯定的な考察を試してみるために
この記事を書いてみた という事情があったのでした。 ↓

 

luriha.hatenablog.jp

 

 

 

 

うつくしいひと<浅田真央さん>

 

初めて彼女の名前を耳にしたのは、
日本への一時帰国からフィレンツェに戻ったばかりの友達たちと 
カフェでお茶をした時だった。

 

「日本にはいま、まおちゃん という
15歳くらいの、可愛らしくて でも ものすごい才能をもつ
フィギュアスケート選手がいて
今度のオリンピックに出そうだったんだけど
年齢が若すぎて 出られなかったんだよ。」 と聞いた。

 

イタリアでは、日本と違って
ケーブルTVのスポーツチャンネルでも契約してなければ
オリンピックその他の試合の様子を詳しく観ることは出来ないから
フィギュアスケートを観るのは好きでも  
イタリアに居たあいだ、浅田真央選手の活躍を見る機会は 私にはなかった。

 

日本に帰国した後にようやく 浅田選手だけでなく
他にも多彩な それぞれ才能と魅力に溢れた 若いフィギュアスケート選手たちが
活躍していることを知って 試合等のTV番組を よく観るようになった。

 

真央さんの たたずまいというのか、
インタビューされている時の 彼女の落ち着いた話し方、
誠実な受け答えなど、
「今どきの」同世代の人たちよりも大人びて見えるその姿は いつも
まっすぐで凛としたまなざしと
時折見せる 愛らしい笑顔とが
彼女の人となりを語っているようだった。

 

私は声フェチなので (声と 話し方フェチ)
その面からも 真央さんのファンだった。
アナウンサーですら、長く聞いていたくない声、しゃべり方、の人が多い昨今
女性らしい愛らしさと でもどこかしら芯の強さも感じられる きれいな声で
品のある話し方をする人は
私にとっては イラン人のサヘル・ローズさんと 浅田真央さんだった。

 

ソチ五輪での あの ドラマティックな彼女の演技。

 

ショートの作品も 本番での苦い経験で、彼女にとっては
辛いプログラムになっていなければ良いな・・・ と願う。

 

だって、あのショパンの曲の作品は
彼女の優美さと愛らしさが、本当によく表現されてたプログラムだったから。
どこかの外国の解説の入った 五輪以外のときの映像を観たこともあるけど
最後の部分で 解説者が思わず 「あの腕の動き・・・!」 と
そのしなやかな表現力に 感嘆していた。

 

そして フィギュアスケート史だけでなく
おそらく 全オリンピック史のなかでも
ずっと 「最も印象的な場面」「選手」のひとつとして語り継がれるだろう、
フリーの あの演技。

 

あのときは 私も
夜中に目覚ましをかけて 起きてライブ中継を観ていた。
前日のショートを そうやって観て
たぶん日本じゅうが ショックを受けて

 

それまでは TVのなかの人に
そこまで思い入れをすることなんか 一度もなかったのに
あのショートプログラムが終わってからの24時間、
不思議なことに 私はときどき 
遠いソチの空の下にいる真央ちゃんは いまどんな気持ちでいるだろう・・・・ と
何度か彼女に 想いを馳せた。

 

フリーで いよいよ彼女の番がきたとき
私は 両手を組み、下唇を噛みながら 
祈るようなポーズで 画面を見つめていた。

 

彼女が 息を大きく ふうーっと吐き出して
覚悟を決めた表情で 準備の位置に収まると
私も 見届ける覚悟を新たにした。

 

あれは 音楽も、振り付けも、 
荘厳 かつ 優雅で
力づよく 
彼女にしか成し得ない技術の粋を集めた
凄いプログラムで、

 

あの ラフマニノフの音楽でなかったら
あの タラソワさんの振り付けでなかったら
そして
オリンピックという舞台でなかったら

 

あそこまでドラマティックな作品には ならなかったかも知れない。

 

彼女は凄かった。

 

圧倒的だった。
演技が進むごとに より強い磁場でも形成していくようだった・・・・
彼女自身が 強い磁力となって。

 

全種類8回(調べずに記憶で書いてるので間違ってたらごめんなさい)の
三回転ジャンプを、全て 同一プログラムのなかで成功させ
緊張感も 疲労も いちばん苦しくなるだろうタイミングなのに
見事なスピンから 最後の 難しく激しいステップに入る時には
私の目はもう 涙で滲んでて 
伝説になるであろうこの演技の すべての動きを見逃さないよう
ぱちぱちと 急いでまばたきをした。

 

彼女は本当にすごかった。

 

いっさい手を抜かず、
どのステップにも コントロールと 全力での表現が成されていた。 
人間にこんなことが出来るんだ って思った。 大げさでなく。
こんなに若い、細い身体の女の子が
こんなすごいプログラムを ここまで完成出来るんだ って・・・・

 

審査員たちの前を過ぎ、着水する鳥のように入っていくスパイラルは
<Perfection>の 体現だった。

 

演技が終わって
彼女が一瞬こらえた涙は 当然 流されてしかるべきものだったと思う。
きっと あの演技を目にした全員が 
全世界が 
そう思ったに違いない。

 

彼女はすぐに笑顔になった。
後になって どこかのWebページで 中国人の真央ちゃんファンの人が
「雨のあとの虹のような笑顔」だと言っていた。

 

すてきな表現だと思った。

 

これからは いつか
自分で自分の頬っぺたを叩いて「しっかりしろ」と言いたくなるような時は
真央ちゃんの この ソチでのフリーの演技を観ようと 心に決めた。

 

彼女は闘った。  
挑戦した。 
ファイターだ、ほんとうに。

 

怖くても 不安でも それでも 自分のちからでそれを抑えつけ
覚悟を決めて挑むということ

 

失敗は 「挑戦した者だけが出来る」ことで 
失敗すら出来ない、決して挑むことが出来ない臆病者は
失敗というものに対して 何ら語る言葉を持たない。

 

彼女は挑んで、成功させた。
前日の失敗のあと倍増したはずの 巨大な恐怖に打ち勝って。
誰も知りえない多くの時間と 汗と 涙を 
信じられないほど完璧な <結晶> に変えて。

 

彼女は美しい人だと思う。
その姿も 心もちも 在り方も すべてが。

 

浅田真央さん・・・・選手生活、お疲れ様でした。
数々の素晴らしいオペラ(Opera イタリア語で「作品」)を
どうもありがとう。
あなたのファンたちは あなたのご多幸を心から願うと共に
あなたがそうしたい時に ショーなどでまた
あなたの優美な氷上の動きと 愛らしい笑顔に
いつでも出会いたいと 思っています。

 

 

 

 ショパンのほう♡

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