これまで と これから

海の向こうからおみやげ持ってきた。

彼らの心の中と、考え方の中にある芯

 

私はキリスト教徒ではないけれど、
時々報道などで耳にするお言葉や、ニュースとして伝えられる行動から、

とても敬愛し、お慕いしていた第264代ローマ法王 ヨハネパウロ二世が、
病気で床に就かれたあとの最後の数週間、


イタリア全土だけでなく世界中から、

多くの、主に若い人たちがヴァチカン広場(Piazza San Pietro)に集まって、
弱ってベッドに寝ている自分のおじいちゃんの枕元から離れたくない・・・ 

とでもいった感じで
何日もそこから動かず、
夜はキャンドルを点けて、持ち込んだギターを弾きながら、
大勢や、一人で歌を歌ったり(←法王様に聴かせるため。傍にいますよ って)
ノートに法王様に宛てた詩を書いたりしながら過ごしていた様子を憶えてる。

 

土日には、更にそこに、大人たちがたくさん加わってた。

 

みんなただ、法王様のお部屋の窓に目を向けながら、
祈るような 静かな そして真剣な顔つきで、広場に立っていた。

 

中には、キュッと結ばれた口元に、今にも泣きだしそうな表情の中年男性や、
心配か不安の色が顔ににじんで目元が潤んだ若い男性、
しゃがんで膝の上で両手を組んで、一生懸命何かを祈っている女の子、
胸元に手をあてて目を閉じ、呟くように、たぶん祈りの言葉を言っている様子のご婦人など、
本当に全世代の人たちの姿がそこに見えた。 
子供を連れて来ているカップルたちも沢山いた。

 

私はその中継をTVで観ながら、

この人たちの心の芯には、キリスト教という宗教が、やっぱりあるんだな

と感じていた。 

宗教というよりも、<心のよりどころ>というものがあるんだな って。

 

この中にはもしかしたら、ふだん、スリとか泥棒とか、悪いことをしている人たちもいるかもしれない。
マフィアなんかも来てるかも知れない。

 

でも彼らの心の芯には、日常生活の延長からでは不可侵な場所に、
なにか神聖で大切なものがしっかりと根を下ろしているんじゃないだろうか・・・・


そんな感じが、すごくした。

 

とうとう、お亡くなりになってしまった時は、
イタリア版MTVをやっていた、ラ・セッテ(La7)という、若者向けの番組を配信する局が、
若者たちがSMS(携帯のショートメッセージシステム)で局に送ったメッセージたちをずっと、画面の下にノンストップで流し続けていた。

 

そのメッセージたちが印象的だった。

 

「Grazie Karol」 (グラツィエ カロル 「カロル、ありがとう」)

みんなそう書いてた。

誰も、 「法王様ありがとう」 なんて書いてないの。

 

ローマ法王ヨハネパウロ二世として生きて、
亡くなる瞬間までその任務を全うしてくれた一人のポーランド人男性の 
カロル・ユゼフ・ヴォイティワ(Karol Józef Wojtyła)さんに、

 

お疲れさまでした、どうもありがとうございました・・・・

 

って、みんな、心からの感謝の言葉を捧げてた。
自分の兄弟を呼ぶときみたいに、親し気に下の名前で呼びかけながら。


次から次に流れ続けるメッセージの川を、一生懸命、
食らいつくように必死に読みながら、私は驚いてた。

 

日本だったら間違いなく、 カロル ではなく 

法王様ありがとう というメッセージになってたはずだ。

 

日本ではその人自身よりも、その人が負っている役柄や役目のほうを重要視するし、
それどころかいつの間にか、

その人自身の個性はないものとされ、

その役割に本人自身の言動や考えまでを一致させ、完全にその「役」と一体になることを要求するような風潮がある。

 

おそらく誰も 「カロル、お疲れさま。ローマ法王でいてくれてありがとう。」という視点など持たない。

 

彼が、数世紀ぶりの外国人ローマ法王として、どのような孤独や苦労を乗り越えて、あのような素晴らしい法王様でいてくれたかに感謝するよりも、


記録として残る、その役にふさわしい働きをしたかどうかの実績で「ありがとう」と言ったり、言わなかったりするのだろう。 

ローマ法王としてあれは良かった、あれは少しいただけなかった、など・・・・

 

イタリアでは違った。 

 

法王ヨハネパウロ二世という人間など最初からこの世に存在しなくて、


その役目を負って生きてくれている カロル・ユゼフ・ヴォイティワ という名前の人間が居るのだ、

彼が今その任務を全うしてくれているのだ、という考え。

 

社会や、世界で、大きな役割を請け負ってしまったために、ただ当たり前の一個人としての様々なことをあきらめ、その役をやってくれている・・・・・

 

それがおそらく彼らにとって、昔から、自然で当たり前の認識なんだと悟った。


だから感謝の言葉を捧げるべきなのは、パーパ(法王)ではなく、カロルという人なのだと。

 

<西洋の個人主義>と呼ばれるものの意味するところを、その表層を一段掘り下げて、地層の姿をすこし目にすることが出来たような気がした。

 

日本では、「人間」を忘れすぎる。


義務、責務、責任、実績・・・・・・・
それらを行うのは皆 血の通った、ただの人間なんだ。
それ用に開発されたロボットじゃない。

 

彼らの芯が私たちにもたらしてくれるものは、何かないだろうか。

 

目を向けてみよう。

 

 

 

 

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