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これまで と これから

海の向こうからおみやげ持ってきた。

グローバリズムについて感じたこと

思ったこと

 

先日、こんな記事を読んだ。

 

タイトル: マクドナルド、出店拒否の伊フィレンツェに21億円賠償請求

www.afpbb.com

 

この21億円っていう数字が、いったいどんな理屈で出てきたものなのか
日本語の記事には書いていなかったので、探してみたら
イタリア紙と、BBC記事に説明があった。

Firenze Today(イタリア語記事):

http://www.firenzetoday.it/cronaca/mc-donald-duomo-ricorso-tar-danno-18-milioni.html

 

BBC(英語記事):

http://www.bbc.com/news/world-europe-37910431

 

曰く、この数字は 
マクドナルドがもしそこにお店を開くことが出来たら
儲けることが出来たであろう数字だそうだ。
なぜか「今後18年間に得たはずの」収益という、
時間的な区切りがついての試算。

 

フィレンツェ市が、出店拒否して そのチャンスを潰したから
「自分たちがこれを稼げないのはお前たちのせいなのだから、
その金額を払え」 なのだそうだ。

 

ひょっとしてこれは 例のISD条項に類するものなのか と思ったけど
不勉強なので マクドナルドが フィレンツェ市に対する
この訴訟の根拠としているものが 正確には何なのかは 判らない。

 

この世界的な企業の経済的な体力が 
どれほど巨大なものであるかは 
世界中の人が知っている。

 

近年、そして つい最近も
多くの犠牲者を出した大地震に 何度も見舞われて
国中が悲しみ 助けを必要としているイタリアに対して
このアメリカ企業は 
既に多くのイタリア国内の都市に店を出し 商売をしているにも関わらず
(ちなみにフィレンツェには私が記憶する限り すでに3店舗ある)
義援金を申し出るよりも
根拠に説得力のない大金を 自分たちに払えと 申し立てている。
(相手どっているのはフィレンツェ市ではあるけれど)

 

グローバリズムの弊害とは こういう思想のことなのだろうか。
金儲けが何よりも優先される。 
収益を上げられる存在(グローバル企業)こそが 何よりも尊重されるべきであり
彼らの理屈が最優先されるべきである と。

 

彼らは 恥という語を知らない。
体裁を取り繕い、良く見られたいと望んでいるようだが
本当の誇り高さがどういうものなのか
理解できる知力を持っているのかすら怪しい。

 

彼らのそういう 金儲け至上主義という思想の 愚かさと 傲慢さが産み出し
やがて世界経済を巻き込み 引き起こした結果を 
2008年に 私たちは見た。

 

2001年のジェノバでの騒ぎのとき、友人のジュリアが心配していたこと
「それぞれの文化の個性がグローバリズムによって壊されて、
世界じゅうが画一的なものになってしまう」ことへの嫌悪と恐怖。
それは正に こういった、
フィレンツェのドゥオーモ広場にマクドナルドを開店させる
というような例のことを 意味していたのだろう。

 

調べてみたら、これはべつに
フィレンツェ市だけの、単独の判断というわけではなかった。
市民たちによる 「NO」という 署名活動や抗議があった。
YouTubeにも、「我々イタリア人の歴史的文化的に重要な場所に
マクドナルドは要らない」 と訴えている動画が上がっていた。
フィレンツェ市の判断は こういった市民の声に支えられ
後押しされてのものでもあった。

 

わたしはイタリア人の、 こういう「アメリカ的な」やり方に対しての
目先の札束には反応しない態度というか

 

美意識だったり 美学だったり

 

自分が住む街や環境の 現在と未来のために 
その生活環境が 今、自分たちが下そうとする判断でどう変わるのか? 
という 
長期的な視点で考えて(あるいは勘で感じて) 判断しようとする姿勢には
本当に心を打たれたし、彼らのその聡明さを 尊敬してる。

 

社会の こういった意思決定者のなかに
そういう考え方をする人間が殆どいない日本国民として
羨ましくも思ってる。

 

私は 自分の国や文化を愛しているとはいえ
その社会文化には 正直 馴染めないことがけっこうあった。
その最たるものが、効率性や利権や、目先の安易な利益に飛びつくあまり
生活環境や 文化のなかの<美しさ>を おざなりにする精神だった。

 

電柱と電線にまみれた風景など
子供の頃から はっきりとではなくても 
目に入るたびに、不愉快な気持ちに ぼんやりとなっていたけど
外国から数年ごとに帰国するようになると
ここは途上国か? と その無秩序な 汚らしい街の風景に対して
絶望的な悲しみに 心が覆われたりした。
何の統一性もない 美的センスも何も感じない看板が
どこにでも溢れている光景とか・・・・

 

「お金を払えば良いんでしょ?」
「お金を出す人が、何でも好きにして良い」
「自分が得するなら、街並みが汚くなろうが構わない。
自分に迷惑などかからないし、生活のなかでの美しさなんて
自分は気にならないから」

 

一般市民のほうも、お金を払う人が好きにして当たり前 ということを
まるで 太陽が東から昇るのは当たり前 レベルの<自然なこと>として
疑うこともなく、頭からそう信じてる。

 

今まで人に 少しでも そういった常識はおかしいのではないか
目に映る調和を壊さずに 目的を遂げる建造物を建てたり
あんな看板を使わなくても 別の集客の方法はあるのではないか
なんて口にしたら、 確実に、 変な人扱いされてきた。
現状そうなっているものに疑問を持つことそのものが もう 
変な人 として色眼鏡で見られる 恰好の理由だった。

 

みんなが疑っていないものに対して わざわざ問題視したり
異論を挟み込むなんて
調和を乱す 不愉快な人 というわけだ。

 

日本という小さな国は 戦争に負けて
食べていくために 必死に
経済をはじめ 国内を 立て直さなければならなかった。
より早い復興が より早く人々の心を癒すはずだと
そのスピードを急いだ現実はある。

 

戦後からずっと かつての敵国の軍隊が
武器と共に 訓練された兵士を国内各地に配備している状況もあった。

 

だから 政治でも 経済でも 日本人たちのほうが
思う様に行動出来なかったり、言動を慎まねばならない事情はわかる。
それに
頭を下げ 相手に譲ることが 本意でなかったとしても
「大人」の世界では 請け負っている役職のためだったり
本当に守らなければならないものを守る という目的のために
一歩下がって見せることで 交渉事を前へ進めなければならないことだってある。

 

何ごとにも 段階、フェーズ(Phase)というものがある。
必ずある。
人間の一生に 幼少期、青年期、老年期があるように。
植物に 種の状態、芽吹き、成長、開花、枯れる という段階があるように。
家を建てる という行為にも
土地を調べ、その土壌に最適な工法を決定し、基礎工事をし・・・という段階を 
ひとつひとつ終えていきながら かたちにして行く。

 

現実としてまだ 幼年期のフェーズにしかいない子供に
「お前はこのような理想的な青年になるべきだ。
今からすぐ その理想の青年のように考え、行動するべきだ。そうしろ!」
と 本気で考え、本気でそう求める人間は 
滑稽だ。

 

原発反対だの 戦争反対だのと 
自分たちだけが 世の中の絶対善を見抜いていて
それを信望しているかのように 声高に叫んでいる人たちは
私の目には そのような人たちのように見える。

 

理想は高く持っていて良い。
究極的な目的や 理想が 夢物語のようなものであっても
人間には 理想や夢が必要だし
それ自体が悪いわけじゃない。

 

ただ、その目標を目指す「今現在」、
現実的な状況は どんなもので どの段階にあるのか については
冷静に リアルな目で 見なければならない。
そして 
現実に即した それに準じた対応を 採らなければならない。

 

経済成長期なら 街並みなど 生活環境の美しさを後回しにして
その街にとって、より「稼ぎ」を産み出し、
経済的な成長を促すほうを採用することが 
その段階での「正解」だと言える。

 

けれど そのフェーズを過ぎたなら、
もう そのフェーズですべき選択とは違う選択を しなければならない。
「今は どんな段階にいて 何を大事にし、どんな理想を目指すべきか?
そのために 今 本当にすべき 決定なり 選択は 何か?」 と。

 

大局的な見地から 
深い思慮と 美意識をもって
人々から選ばれて 意思決定者となっている人間なら、
その判断に責任をもって 決定しなければならない。

 

もし自分自身が
何かの意思決定に関わることがあるなら
私は そういった視点から判断するようにしようと 心がけている。

 

今は どんな現実に直面しているのか?
どんな段階にあるのか?
未来まで見据えたとき いま選択すべき答えとは何か?

 

 

マクドナルドに対するフィレンツェ市の判断を 私は支持する。

 

 

成長期をとうに過ぎ
成熟期にある我が国の意思決定者たちにも
今回のフィレンツェ市のような判断力と 矜持を持つことを期待する。

 

 

 

友達のジュリアが出てきた記事:

luriha.hatenablog.jp