これまで と これから

海の向こうからおみやげ持ってきた。

外から見えるものと実際のこと

 

最近、なんとなく思い出したことなんだけど
むかし、中国で天安門事件というものがあって
そのニュース映像を観ながら
とても疑問に思ったことがある。

 

実際のことは知らずに
イメージで そう理解してたことなんだけど

 

たいていどこの国でも 
軍隊の仕事で、 <現場>に出る人たちって
20代くらいの年齢の人たちだと思ってた。

 

だからあの天安門広場の映像で、
国の民主化を求めて集まっている、学生を中心とした群衆に対して
戦車など 武器を使って鎮圧している兵士たちって
もしかしたら
自分の学校の友達や、幼馴染や、年の近い親戚なんかに対して
ああいうことをやってるの? って驚いた。


そんなこと 普通、できるだろうか?
自分の友達がそこにいるかも知れないのに


それともプロの軍人にとっては、命令は絶対服従だから
友達だろうが家族だろうが、やれと言われればやるのかな・・・・
って

 

もし自分が当事者だったら と とても空恐ろしく、
そして単純に 「でも」と とても疑問に 感じたんだ。
見ている状況に対する 違和感というか・・・・・

 

ずいぶんあとになって、
そのとき感じてた違和感、疑問に対する答えを、
この事件に関する何かの本の中か、記事の中で見つけた。

 

そこには
あのとき、事件があったのは北京だから
抗議に集まっていた若者たちは、「北京市周辺に暮らす民族」の中国人。
対して、中国政府が治安回復のため、その任務に当たらせたのは
「北京からは遠い地域の」「北京市周辺の民族とは全く別の民族」の
中国人兵士たちだった
と 書いてあった。

 

なるほどな と思った。 だからか・・・ って。

 

そのとき初めて、中国は、私たちが外から見るぶんには
「中国人」という同じ民族たちだけが住んでいる、と信じ込みがちだけれど
本当は
いくつもの、多数や少数の民族や部族に分かれているのが
じっさいの中国(国内)の姿なんだ ってことを知った。

 

こんな事件がなければ、疑問に思うようなこともなくて、
もしかしたらずっとそんなことには 気付かなかったと思う。

 

他にも
三把刀(サンパータオ 床屋、仕立て屋、料理屋の「刀」)を携えて
昔から「海至るところに華僑あり」と言われるほど、世界各地に散らばって行った中国人たちは
北京語を話す、中央政府に近い民族ではなく
客家(ハッカ)語という言葉を話す、南方の民族の中国人だ という話も
聞いたことがある。

 

今回帰国して以降は 中国や中国人のこともよく耳に入ってくるから
都市部の戸籍を持つ人と、地方都市の戸籍を持つ人とでは
同じ中国人なのに ずいぶんな 権利と自由度の差があるらしい とか
イスラム教徒の、全く違う民族であっても、
その人たちの住む地域が 今は中国の領土となっているから
見かけは たとえば イラン人みたいに見える人でも
中国人になるんだ・・・ とか 
もともとは同じ<中国人>だった、いま台湾人となっている人たちは
大陸の中国人たちとは 考え方や意識が
どうやらまるで違う人種みたいだ とか
さまざまな 知らなかったことを知った。

 

おそらくは もっと身近なことでも
似たような話はある。

 

仲が良さそうな家族が、実際は 家ではお互いに口もきかないほど
仲が悪いだとか
うちが正にそうだったし

 

めちゃくちゃベタな 昭和的寓話だけど
不良と呼ばれる見た目の若者たちが
本当は 心優しい、
ただ 鬱屈した想いを表現する言葉を持たないほど幼いから
言葉の代わりに 身体で表現してるだけの 
淋しさを抱えた かわいそうな子供なんだとか

 

ひどい例だと
仲良くしてる友達が 自分が居ないところでは
実はすごい悪口を言ってる人だとか
そういうのって どこでも わりと「あるある」なことだと思う。

 

「あるある」なのにも関わらず
外から他人が見てるものは 
そのまま実際の現実とは限らない っていうことは
ふだん 生活していると 忘れがちになるから

 

時々 それを認識し直してから、世の中の出来事を見る ってことを
思い出すように 努力してる。

 

果たして本当にそうだろうか とか
ほんとうに、見えている通りのことなんだろうか とか
そういった疑問が自然に 自分のなかに浮かび上がってきた時は
(自分の生活には関係ないことでも)
その疑問を排除せずに、じぶんのなかに留めておく。

 

調べられる機会や時間があったら、そうする時もあるし
そんな疑問は たいていは そのまま日常の雑事に埋もれていってしまうけど
どこかでその疑問に対する答えの ヒントみたいな情報に触れると
かなり時間が経った後でも
「あ。 コレって・・・」 って、心の引き出しの中の疑問が カタカタって鳴るように
意識が動く。

 

単に個人的に この世界を 
より深く より多角的に理解して 「楽しむ」 ための行動だけどね。

 

同じ日本人でも やっぱり
理解できない考え方や 行動をする人たちもいたし
イタリア人や 他の国籍の人でも 妙に感覚が似通った人もいた。

 

個別に見る場合では、 結局は その人個人。
日本人に見えても 日本人的な考え方をしてないかも知れないし
日本人じゃないかも知れないし
外国人に見えても 日本人みたいな感覚をもつ人かも知れないし
日本人かも知れないし(国籍が)

 

その「まとまり」(グループ、民族、社会など)全体の傾向とは、また別で。

 

ものごとにも 深い部分では それが表面化するまでの事情があるし
実際の、実体としての現実は 
見えているものとは別に 存在していたりする。

 

知ってても 知らなくても 日常生活に不自由はないし
どっちでも別に 良いことなんだけど
その着眼点を持つ人と 持たない人とでは
世界の見え方が 全く違うことだけは確か。

 

おもしろき こともなき世を おもしろく  ってね。
(出典の言葉の意味は違うものだけど 笑)

 

 

なんか最近 そういうことが思い出されたので

 

それだけの話です。