これまで と これから

海の向こうからおみやげ持ってきた。

意思表示を怖れないこと

 

たぶん
「感じが良くていい人」と みんなから思われたいのは、誰でも同じ。
誰かと 何かで 言い争ったりとか
自分から人に嫌われにいく人なんて、まずいない。

 

それでもさ

 

判断力のない子供時代ならいざ知らず
とっくに成人している大人の立場で

 

いつでも 何でも、 何に対しても
「全く」自分の意見を持たなかったり、あるいは言わなかったり

 

意思表示をなにもせず

 

「私は双方どっちにも味方します」
あるいは 
「どっちの味方でもありません」
な態度をとり続ける人たちって
自分で どう思って そうしてるんだろう。

 

本当に いつでもその態度でいることが良いのだろうか とか
自分がこれについて意思表示をしないのは 
こういう理由があるからだ とか

 

じっさいそれをしている人たちは、
ちゃんとそれについて考えたり 状況分析をやったうえで そうしてるのかな。

 

私見だけど
私は してないと思うんだよね。

 

そういう人たちの多くは
自分の頭で ものを考えることをしなくって
いつも どこからか聞いた話か
自分の思考を通ってない 「だれか」 別の人の意見を 
そのまま信じてるような人たちなんじゃないかと思う。
(違っていれば、良いんだけど・・・・)
だから単に判断力がなくて、意見を言えない。

 

もちろん
世の中の全ての物事に対して 
いつも明確に自分の見解があるわけもなく
たいていは 
両方の言い分も聞いてみないとわからない とか
いま見えてる事だけがその問題の全てなのか、
まだ判らないから判断できない とか
個別の さまざまなケースがあるけれど

 

それでも 
一人の大人として 態度を明確にすべきことだって 
普段から 日常に たくさんあると思うよ。

 

たとえば

 

差別はイケナイとか、判で押したように みな言うけれど
しちゃいけないのは 「謂れのない差別」 だけだよ。

 

「差別」という言葉は、
なにか理由があって、他とは区別して扱う人や、状況があった時に
「区別された側」が使う言葉で
区別する側にとっては、単に「区別」と呼ぶ行為のことなんだと思う。
(もちろん いろんなケースがあるけれど。)

 

「理由のある差別」は、
なぜそれが必要なのかを きちんと説明できるものならば 
むしろ 見分け方の能力を高めるためにも 大人から先ず
日常生活のなかで 冷静に 公正に考えた上で 
やってみせるべきものなのかもしれない。

 

「判断して区別する」ってことを 自分自身で学ばせたり 教えたりしないと、
これから大人になっていく子供たちだって 
善悪すら しっかり学べない。

 

いじめっ子は、いじめなんかしない子と 明確に区別して、
特別に指導したり
罰を与えたりするべきだし 
それを「いじめっ子が差別されるから可哀想」なんて言うのは違うでしょう。

 

その子にいじめられて苦しんでる子がいるのに。
悲しくて、絶望して、自殺までしてしまう子がいるのに。

 

「おまえはいじめたんだから、その代償を受けなさい」という筋を通し
大人全員が はっきりと意思表示をしないと
子供たちは いじめが悪いことだと学べない。

 

「なんで」それをしたかっていう理由を問うのは、次の段階だ。
情状酌量はそこですれば良い、その子の話をちゃんと聞いてあげて。
必要なら 心のケアもしてあげて。

 

でも

 

「いじめた事実」に対しては いっさい容赦せず 
それが問答無用で悪いことだと認めさせ、
先ずはそれを 厳しく叱らないといけないと思う。

 

どんな事情があろうが、自分の身勝手な都合で
他人に対し やってはいけないことがあるんだって。

 

それで他の子に 
「君はいじめっ子だから一緒に遊びたくない」と言われるようになっても
それは理由のある差別であって、不当な差別なんかじゃない。
単に自分自身がしたことの代償。

 

いじめたことを反省して、
いじめた子に謝ったり、仲直りして、
二度ともういじめをしなくなっても
しばらくの間「あいつはいじめっ子だ」と言われ続けることは仕方ないだろう。
たとえば1年 いじめ続けていたなら 
やっぱり名誉回復には1年くらい かかるんじゃないかな。

 

その代償をちゃんと受けた後に、たとえば
何年たっても いつまで経っても 「いじめっ子だった」事実は消えないにしろ
それを糾弾し続けることは 
また別に 考察しなければならない事だとは思うけど。
(それは実際にいじめ被害を受けた人の、心の傷の深さにもよると思う)

 

大人たちが気を付けなければいけないことは
その「理由のある差別」を きちんとコントロールして
子供たちだけに 状況を任せないこと。

 

子供たちだって 大人といっしょで
特に集団になると、権力を笠に着て、暴走することがある。

 

元いじめっ子が「きちんと反省しているのであれば」 
大人たちはその子も 一人の子供として 守ってあげる必要がある。
近い将来 今度はその子が
「被害者」の立場になってしまわないように。 


「〇〇君は、ちゃんと反省してるんだから、もう赦してあげなさい。
実際にもう、いじめなんかしていないのを見てるでしょう?
だから仲良くして 一緒に遊んであげなさい」って。

 

大人の責任って、子供に対しては
小さくもないし、簡単でもなく、
実際のところ 非常に骨の折れるものなんだと思うけど
学校でも 家庭でも 
たぶん社会でも
大人たちは じぶんの忙しさにかまけたり
じぶんの保身や 怠惰を優先させて
次世代を教え諭すことについてや
現代社会をより良い方向へ導いていくことについては
すごく手を抜いてるんじゃないかと思う。

 

最近の風潮では 親が子供に  
「いじめっ子を止めるといじめられるから、黙ってなさい」って教えるって
ほんとなのかな。
見て見ぬふりをしろって 言い聞かせてるってことでしょ? 
たとえ自分の目の前でひどいことが起こっていても 止めなくて良い 
って教えてるってことでしょ?

 

恐ろしいよ。 

 

私は 小学校の先生だったおばあちゃんから
「いじめられてる子がいたら、かばってあげなさい」 
と教わっていたから

 

うちの小学校では せいぜい少人数の意地悪グループが 
悪口を、本人に聞こえるように言うって程度のいじめしかなかったけど
(たぶんまだ平和な世代で その後 私が通った中学高校では
たまたま いじめもなかった)

 

それでも 
そうやって悪口を言われてる子が 
下向いたまま泣いてたり、
ちいさく縮こまったりしてるところに居合わせたら

 

その子の隣に立って、 
そこから意地悪グループの子たちに向かって
「〇〇ちゃんは、 ~じゃないよ!」 
「いじめる子って、かっこわるい」
くらいは言うようにしてた。
おばあちゃんからの言いつけを 私なりに守るために。

 

そういうところで 勇気(?)を培っていたからか
自分が言葉で攻撃されたりした時も 
「ちがうもん」とか 
ちゃんと意思表示して 言い返してた。

 

1 対 大集団 でされない時代だったから 出来たんだとは思う。
あの頃 私の学校では先生達もまだ ちゃんと介入してくれる人たちだったし 
クラスメイトの中にも 
「そうだよ、るりはちゃんの言う通りだよ」って言って、
味方になってくれる子たちもいた。

 

(いじめに関しては もう一つ気になってる事がある。
親たちは「うちの子が いじめられたらどうしよう」とは思うのに
「うちの子が いじめたらどうしよう」とは考えないから
「誰かにこういうことをしちゃダメだよ」という教育が
先ずされていない、という話。
この記事の主旨とは違うけど、ついでなので一言。)

 

「意思表示」っていうのは とても大切なことなんだと思う。

 

なにか解決するべき事態が起きたとき
意思表示を 
その場にいる全員が全くしないで 黙ったままだと 
力の強い人間の 独壇場になるだけなのに

 

なにもオリジナリティあふれる意見を言う必要はなく
はっきりとした自分の意見がないなら
せめて 良識的な声をあげる人がいた時に
すかさず 「そうだ」 と賛同する意思表示をして
それが「大多数」になれば
ただその場での力が強いだけの人が 幅を利かすことにはならないのに。

 

「そうだ」と はっきりとした言葉で賛同すらせずに 
その判断への関わりを避けようと 
あいまいに 黙ったままの人が あまりにも多いから

 

せっかく勇気を出して声をあげた人が
孤立したり 少数派になってしまい 
声がかき消されてしまう。

 

自分の身を守りたいのは解るけど
それを多くの人たちがずっと続けてきたから 今の日本は
子供の社会も 大人の社会でも
良識的な人間がマジョリティになれず

 

実際のところ どこかおかしいことが 世の中ではまかり通っていて
加害者や 非常識な人たちが より強く 
被害者や 常識のある人たちが より弱いままの この現実のなかで

 

人によって置かれている状況は違うから 
そこは個々人で出来る範囲もあるだろうけど

 

社会の問題について 人間関係の問題について
保身のために それでも今まで通り
このままずっと 沈黙を続けるべきなのか
いま
もういちどよく 考えて欲しいと思う。

 

私は 意思表示をせずにずっと黙っていることが 
「大人の対応」で
それがいつでも「良識的な良いこと」だなんて、 
違うと思う。

 

少なくとも じぶんは知恵も常識も持っていると自覚してるなら 
逆に
「何も意思表示をしないのは恥だ」くらいに 思ったほうがいい。

 

自分の判断力に自信がなくて出来ないなら
「いまの自分」としてどう思うか でじゅうぶんだし
(人間は日々勉強・日々成長だから)
まだまだ未熟だと思うなら
自分で努力して、それを磨くべきだし。

 


<義を見てせざるは勇無きなり> 
ギヲミテセザルハ ユウナキナリ

 


せめてこの古い日本語を
もう一度 日本人の 心のなかで生き返らせないと
失われていくべきでないものを 守り切れなくなってくる。
なにか大切なものを 永久に失ってしまいそうな
そういう危機感を感じてる。

 

潜在的マジョリティの人たちは 「まともな」人たちなのに
その人たちが 黙ったままで
声を挙げて意思表示をしないから 
ただ大きい音を鳴らすだけのマイノリティに
<日本の世相>を乗っ取られてる。

 

自分には何も責任がない なんて思っちゃいけない。
黙っていないで 意思表示をしていこう。

 

これは心理戦でもある。

 

非常識な人たちに 非常識なことを続けさせず
「あれ、自分は間違ってる?」 「自分は 非常識だと思われてる?」 
「自分に味方してくれる人が・・・いない?」 と
自ら考えさせ、その声をトーンダウンさせるための。

 

彼等にとって居心地の良い、「やりやすい」環境を 与えないための。

 

たった一人で 頭のおかしい人に立ち向かえって言ってるわけじゃない。
状況判断は いつだって最優先事項だし
「保身」という言葉は同じでも、その動機と状況にはバリエーションがある。

 

ただ
<本当のマジョリティ>としての立場を きちんと取り戻そう、
そのためには 一人ひとりが 八方美人を決め込まないで
保身ばかりに走らないで
沈黙を破って 
意思表示をする必要があるんだ と 私は思うから、
それを書いてる。

 

「そうだよ・・・その人の言う通りだと思うよ」
あなたの心がそう感じたときに、心の中だけでなく、
ちょっとだけ勇気をだして 
声に出して 言うようにすればいいだけ。
はっきりと 味方してあげればいいだけ。

 

私のおばあちゃんが教えてくれたように
子供たちには 
黙っていなさい ではなく、
「いじめられてる子がいたら、かばってあげなさい」 
と教えればいいだけ。

 

教師や校長ですら 保身のために口をつぐんでいる現実のなかで
子供たちの心や 身体を守るためには 
子供達同士で直接 お互いを守り、かばい合うようにさせるしかないんじゃない?

 

会社や 社会のなかで
良識的、道徳的な意見や 規律の軸が
変な方向に行ってしまわないよう 
皆がそれぞれ 
自分の意思表示をすることで 気を付けるようにしていったら
今の社会の現状は どう変化していくだろう。

 

沈黙した水面に かすかな揺らぎさえ起らなかったら
その水は静かにただ よどみ続けていくだけだけど

 

ひとつひとつは たとえ小さな声(発信)でも
その小さな音が重なり合って 大きく響き渡っていったり

 

誰かの勇気ある 小さなひとことが 
本来の<マジョリティ>の 最初の同心円を 
きっと生んでいくよ。

 

和をもって貴しとなす文化を、 
社会を、 
これ以上 いびつに歪ませたり 
小さくさせて やがては 消えさせてしまわないように。

 

風のなかで 一人ひとりの手のひらが集まって 
しっかりと風を防ぐ 厚い壁になり
今にも消えそうになっている 小さな火を 
決して失ったりしないように。

 

自分でどう感じていようと
あなたの声は
取るに足らない 価値のないものなんかじゃない。

 

大人であるあなたの喉から発せられる 小さな声のひとつひとつが 
世論や社会常識を かたちづくっていく。

 


どうか明確に

「意思表示」を。