これまで と これから

海の向こうからおみやげ持ってきた。

見極めと見切りの大切さ

 


さいきん世の中が騒がしい。

 

まるで別次元での出来事のように 
一般人のあずかり知らぬところで進んでいる事態もあれば
日常生活では 一見、普段と変わらない平穏な時間のなかで
どこか奇妙な事件が 起こっていたりする。

 

いつも もどかしく思うのは
何事につけても
最悪の事態を想定してみることをする人が
周りに殆どいなくて
そういう想像をしてみる人のことを、小馬鹿にする風潮が
身近にあることだ。

 

たしかに 世の中に起こることも
自分自身に起こることも
何ごとも、そう簡単に全容や真実を
把握できたりはしない。

 

時間と共に変化していく状況や相関図は
生き物のように
その性質が元とは違うものに「育って」しまったりもする。

 

ある程度の時間をかけて
<事実>を集積しながら
注意深く観察して 考察を加えて初めて
見えてきたり、
浮かび上がって来る<真実>もある。

 

突発的なものももちろん 
私たちの周りには存在するけれど
たいていの物事には
たとえ誰も気づかなくても
その結果を予測できるような 先行する出来事が 
既に起こっていることが 現実には多い。

 

身近なことから、国同士のことまで、
これは全く同じ現象だと言える。

 

たとえば子供の 小さいと思える我儘を
「可愛がっていれば いつかこの子も
聞き分けの良い子になるだろう」 
と寛大に許していたら
その子が後に 手の付けられない暴君のような人間に育つとか。

 

あるいは
二度続けて、チャレンジしても
望んだ結果を得られない状況が起こったなら
三度目にもまた やはり失敗するとか。

 

目指しているものに到達できないのに
修正を加えたり やり方を変えず 
それまでと同じ挑戦をするのは
愚鈍なことに 私は思える。

 

少なくとも アプローチを変えて挑むべきだと 私は思う。
「そのやり方では結果を得られない」 という事実が 
そこにもう あるのだから。

 

今までのやり方ではだめだ と
厳しい目を向けて 修正を加え 対応するようにすべきだと思う。

 

けれど そうした姿勢は
対人間ということになると、
とたんに
博愛主義者と称する人たちや 人権を云々する人々が
一斉に異議を唱え始める。

 

確かに人は複雑で
同じ人でも その時置かれている状況によって
同じ物事に対しての反応が違ったりもするし
その人自身が「思ってもみなかった」行動をとってしまうことだってある。

 

その時間的猶予や 判断を保留する機会
愛情をもってなされる忍耐 は当然
あって然るべきだと思う。

 

けれど
人であっても 物事であっても
最終的に 冷徹な目をもって <見極める>ことは 
とても大切なことだと思う。

 

そして 状況によっては <見切って> 切り捨てることも
必要な場合だってある。

 


それぞれに 多岐にわたる悩みがある

 

この仕事を続けるべきか
この人と この関係を続けるべきか
この方法を再度検証する必要はないだろうか
この要求をのみ続けるメリットはまだ残っているか・・・・・・

 

人生のさまざまな場面に於いて
見極めと 見切りの判断が
必要とされているのに
普段 たいていの人たちは
ただずるずると
同じ状況に引きずられたまま 変わることのない苦しみを受けつづけ
日々を過ごしていることが多い。

 

それは
自分自身で 建設的な方向へ向けて
ものを考える習慣のない人が
陥りやすい傾向じゃないかと思う。

 

「この状況を打開するには」 という命題で
自力で環境を変えようとする意思をもって
ものごとを好転させるために自分の知恵やエネルギーを使うのではなく

 

誰か他の人からの助言や 判断や 助けを待つばかりで
自分では 嫌だと思っているその状態から逃れたり
それを止める術も持たずに ただ苦しみ続けてしまう・・・・・
まるで 無力な子供のように。

 

じぶんで 自分の置かれている環境や 状況を変えようとするには
とてつもない勇気と 気力と エネルギーが必要とされる。
自分にはそれをまかなえない と
人を諦めさせてしまう要因は多いのだろうけど
努力というものは
常に困難と 労力と 挑戦を
人に強いるものに 他ならない。

 

石の上にも三年 といったような格言にさえ
時間的区切りは とりあえずついている。
いつまでも<見極め>をせずに 
ずるずると同じことを続けていても 
そこに意義は もはや無いし 
自分自身も疲弊していってしまう。

 

同じように
嘘をつくことが習慣の 不誠実な人間に対して 
いつまでも辛抱強く 誠実さをもって対応することに
どれほどの意義があるだろう。

 

子供向けの童話なら 忍耐から教えられることもあるけれど 
現実社会で 他の人間の生活や生命がかかっているなら
ある時期を過ぎたら <見極め> <見切る> 判断を
しなければならない。

 

客観的に ものごとを見て 対処しなければならない。

 

いま 
恥知らずな貧乏国が 食べ物を恵んで欲しい と言う代わりに
なけなしのお金で 他国から技術や技術者を買い集め 
迷惑極まりないオモチャを振りかざし
お腹が空いてるんだ、美味しいものを食べさせろ と
騒ぎ立てている。

 

愚者を憐れむより 利用しようとする 
卑劣で 狡猾な者たちもまた
その騒ぎに乗じて 自分の私益を肥やそうと
陰に日向に その状況に入り込み 問題を複雑化させている。

 

「平和」という言葉は 美しく 確固としたものであるべきもののように
語られることが ままあるけれど

 

「平和」 というのは ただの「状態」であって
それを出現させるには 
条件を揃え
(それを保ちたいと望む)関係諸国間の 
政治力学的なバランスを崩さないよう
微妙で 繊細な調整を 
常に続けていく以外に
それを存続させ 維持させる手段はない。

 

「平和」は物理的に生まれ、保たれるものであって、
精神論では生まれ得ないのに
自称平和主義者たちは 
人間の心がけ次第で平和は生まれる
と説いて止まない。


愛が地球を、人類を救う という言葉を 滑稽に聞いたとしても
私は それが陳腐だとは思わないし
むしろ 積極的に信じている。

 

けれど そこに到達するには 私たち人間にはまだ 
長い時間がかかるということを 私は知っているつもりだから
世間知らずで 無邪気な正義漢が夢見るような理想論にはまだ 
引っ込んでいてもらうしかない と感じている。

 

「平和」は均衡、バランスがとれている場所にしか 出現し得ない。
球体の上に危なっかしく載っている、何角形かの薄い板でも想像してみて欲しい。

 

その中のいくつかの角に、大小ちがいのある重りがくくりつけられているとしたら
その板は バランスよく 球体(不安定なもの) の上に
均衡(平和)を保って 静かに載っていられるだろうか。

 

自分が望まなくても
人と対立して 状況と闘わなければならないことも
本来採りたくない態度をとらなければ 状況を好転させられない という事態も
この世界に生きている限り 起り得る。

 

直截的に言うなら

 

不誠実で 不真面目であることが明白な相手は そう見切って
無駄な対話を模索すべきではないし
中国、ロシア、朝鮮が 軍事力をもって均衡を崩そうとするなら
バランスをとるために 日本も同じものを揃えなければならないと思う。

 

繰り返すが「平和」とは、物理的バランスのとれた状態のことであり、
愛の心や理想論で どうにかなるものではないから。

 

日本に 潜在的な怖れを持つアメリカは 
戦後ずっと 日本に 日本自身を未熟な子供と信じ込ませ 
父親役をもって任じてきたけれど
戦後初めて
日本の「独り立ち」を 認めるような雰囲気になっている。

 

千載一遇といえるこの機会を
逃してはならないと思う。

 

将来 周辺の懸念が払拭されたあと
最後に
最終的に 
日本が 話をつけなければならないのは アメリカだけど
(敵対するという意味ではなく)

 

今は 協力の時だから
手を握り合うべき相手を見極めて
今の状況を 最善の方法で
将来のために 好転させる方向へ持っていかなければならない。

 

日本はいま 
バランスをとり 平和という状況を保っていくために
防衛力を強化して
周辺諸国との均衡を図らなければいけないと思う。
必要なら 我々は核兵器も持つだろう と 
「アナウンスする」ことは 実際的な効果を生むだろうとも思う。

 

もう対話の時期は過ぎた と明言してくれる声には励まされる。

 

その通りだと思う。
そして 対応がまだ間に合うことを祈る。

 

もし この子供の我儘さ加減は 将来面倒なことになるな と感じたなら
甘やかすのではなく その時点で 叱り、諭すべきなのだ。
育ってからでは 修正が効かなくなるのが世の常だから。

 

見極めと 見切りの大切さは
すべてのことに及ぶ。