これまで と これから

海の向こうからおみやげ持ってきた。

母からの電話

 

私がイタリアでの事故で死にかけたとき
母はもう他界していた。


私の事故の半年前に 急逝していた。


だから もし私までその事故で死んでいたら
うちの家族にとってその年は 
家族の女性メンバー全員が「消滅」した年になっていただろう。

 

母はちょっと特殊な急性白血病で亡くなった。
特殊というのは、
白血病の原因が 母乳感染によるウイルスからという
珍しいもので
しかも このウイルスキャリアの95%は一生発症しないので
この病気そのものの実例数が少なく
あまり知られてもいないし
研究も進んでいない、というものだったから。
(↑当時の状況)

 

母の死の ちょうど1年くらい前
私は母から 奇妙な電話を受け取っていた。
いつもの母とは 違う人のような内容の。

 

何度かもう書いたけれど
私は 子供の頃から
「おかあさん」 と
ひらがなで表されるような、
「おかあさん」という音の響きそのもののような、
まろやかで優しく、
柔らかくて、あたたかい存在を
自分の中に持ったことがない。

 

そんな心のふるさとの様な「おかあさん」像は
一般イメージとして理解できるだけで
私をじっさいに育ててくれたのは
「母親」 そして 「父親」 という
その役割を 過不足なく
責任をもって果たしてくれた、
社会的義務に忠実な 
私としてはその労務に感謝すべき 
男性と女性だった。

 

思春期の頃には 友達など
仲の良い親子たちが羨ましくて、憧れて
成人してからは 言葉で傷つけられた時には
言い返したり 指摘したりすることも出来るようになったけど

 

いつも 誰かしらと比較しては
私の欠点や 劣っている点を指摘して
嘆いてみせて
そのあとには 侮蔑の言葉が続いて
「お前は本当に育て甲斐がない」 と繰り返す両親には
だんだんともう 
わかり合うとか 大切に想い合うとか
そういう心でのつながりなんて 期待しなくなっていた。

 

私がイタリアに住むようになってからは
引っ越したら 新しい住所は一応知らせていて
ときどき 日本食を送ってくれたりするようにもなったけど
(私も帰省時にはお土産を持って行ってた)
心の距離が縮まったわけではなかった。

 

国際電話も 何か重要な知らせがある時にかけ合う程度のもので、
おしゃべりしたり 声を聞いてお互いに安心したりするためのものではなかった。

 

でも その日に掛かってきた母からの電話は
まったく予想外のものだった。

 

電話に出ると
母は いつもの口調で
「あんた生きてんの?」 と聞いてきて
「おかげさまで」 と これもいつも通り、
機械的に 感情を交えず答えた私に
何やら言いづらそうに 口ごもったあと
「お母さん、あんたに言いたいことがあるのよ」 と続けた。

 

また愚痴か・・・・

 

うんざりしたけど、「なに?」 と促した。 
疲れそうになったら受話器を耳から離しておけば良い、
国際電話はお金がかかるから、長くなることはないだろう・・・・・

 

そうしたら、意外な言葉が聞こえてきた。

 

「お母さん、ずっとあんたのこと、子供の頃から
抱っこもしてあげないで、
いつもひどいお母さんで ごめんね」

 

「?」 
聞き間違いをしたと思った。
母が私に 「ごめんね」?
あり得ない。
だってうちでは どんな些細なことでも
正しいのは 常に親の方で
たとえば探し物が 私が指摘した棚から出て来ても
「私は確かにあっちの棚にしまったのよ。
どうせあんたがこっちの棚に移したんでしょ」と負け惜しみを言うくらいで 
絶対に自分の間違いは認めず 
親が子供に謝ることや お礼を言うことなど一つもないのだ と
本気で信じ込んでいるような人たちで
私はそういう環境で育てられてきたから。

 

私は驚いて
事態がよくわからなくて 黙っていた。
聞いてるかと聞かれたので、ちゃんと聞いてる、と答え、
どうしたの急に? と 逆に心配になって、冷静に聞いた。

 

母は、「どうしてお前が、いきなり遠い外国になんて行ってしまったのか、
ぜんぜん分からなかったんだけど、このまえ突然判ったのよ。
あんたは家に、自分の居場所がなかったんだって。
そして、あんたの小さい頃からのことをいろいろ思い出して、
お母さん、あんたのこと、厳しくしつけるばかりで
ぜんぜん可愛がってあげてなかったことに初めて気が付いて、
そうしたら急に、あんたが可哀想でたまらなくなって
謝ろうと思って、電話したの」

 

あの母が、私にこんな言葉を言うなんて・・・・
この人に一体何が起こったんだろう、と頭が混乱したけれど、
語られる言葉を聞きながら
心のなかにあった 大きな氷の塊みたいなものが お湯でもかけられたように
シュウーと溶けて 小さくなっていくような感覚があった。

 

けれど私のなかでは 
両親のことは
とっくの昔に諦めてしまっていたせいで
感動とか 感激や 嬉しさなど
とくに 強い感情は起らなかった。
今さらなに? といったような
拗ねた感情も 湧かなかった。

 

私は静かに
「自分の家なのに 安らげる場所だと感じたことはなかったけど
それが普通だったから 別に大丈夫だよ。
確かにあなたたちから なるべく遠い場所に行きたかった。
いまちょっとびっくりしてて なんて言っていいかわからないけど
でも、わたしのことを思ってくれて
私の気持ちに寄り添ってくれて ありがとう」
と伝えた。 たぶん淡々と。

 

母は、生活に変わりはないか
今度はいつ日本に戻るのか、
こんどお父さんと台湾旅行に行くつもりなんだけど、
お母さん最近体調がおかしくて、なかなか日程が決められなくて困ってる、
といったことを話して、
初めて
「次におまえが日本に帰って来る時を楽しみに待っている」
と言ってくれた。
それまでは 帰国の予定を知らせても
「どれくらい滞在するの?」
「成田に着いたら連絡しなさい」
程度の、事務的なコメントだったのに。

 

電話を切ったあと しばらく母の言葉を反芻して
ようやっと じんわりと 
心が少し あたたかく感じられて来た。
こんど日本に戻ったら、私と母は、
今までとは違う関係を
新しく 築けるのだろうか。

 

あの母と?
ほんとうに?

 

赤ちゃんの頃はともかく
物心がついてから そんな機会はなかったと感じる、 
母とふたりで 仲良く 楽しく
笑い合えるようなことが
そんな時間が 持てるのだろうか。 

 

日本、いつ行けるかな・・・・

 

淡く黄色いパステルカラーみたいな
ふんわりとした やわらかい高揚感に包まれながら
私は手帳をめくり 
節約して貯めている貯金の金額を確認した。

 

外国に住んでる人は たぶん誰でも
「いざという時すぐ帰国できるエアチケット代」
「なにかあった時の為の少しまとまったお金」は、
日本円で別枠でとっておくか
現地で節約に努めて貯金をするかして、持っていると思う。

 

私が前回帰国したのは もう2年前になっていた。
貯金も 2往復できるくらい貯まっていた。

 

今年、日本に行こうかな。

 

半信半疑に感じる この母の心境の変化をたしかめたくて
あるいは 母の気が変わらないうちに(笑)的な
気持ちもあって
私は 里帰りの計画を真面目に考え始めた。

 

そしてその年の秋、それは実現できた。

 

けれど その私の帰国は
当初思っていたようなものとは違ったものになった。

 

新しい母娘関係を築きたいと双方が願っていた
私と母との しばらくぶりの再会は、

 

ベッドに横たわる母を 
見舞客として訪ねるかたちで
ある大きな病院の
血液内科の病室で 果たされた。

 

 

 

 

ごめんね、暗いけど続きます☆
ブログ分けた方が良いかにゃ・・・